2011年7月31日日曜日

捨てる勇気


 この夏はかなり大がかりな改装を行う事になり、主に住まいの部分と一部仕事場の改装が加わり、毎日荷物の移動で大変な日々です。特に水回りを全部いじるとなると、毎日の生活も不便を来すので、どうして過ごそうか、真夏であるのが気楽といえばそう言えなくもなく、寝る場所も確保しつつの片付けです。住みながらの改築は二度目とはいえ、どんな八月になるかと思っています。しかし、もうスタートしたのだから頑張るしかない、これが最後なんだからと自分に言い聞かせて、作業をに追われる日々です。

 箪笥の中や物置の中を整理するには丁度良い機会だ、となるべく捨てる物は捨ててと覚悟はしたものの、いざ古い物を整理し始めると捨てると簡単に思っていたことが大変なエネルギーを要してへとへとになることを改めて思い知るのでした。片付けは他人に任せた方が良いと言う意見は知っていますが、言うほど簡単にはいきません。まだ私という人間が存在していて、その本人が決断して行かねばならないことは、自分の中に捨てる捨てないを決める二人の自分との闘いというか、折り合いを付けるというか、そのようなせめぎ合いが果てなく続く作業でもあります。
 日頃は自分でも三年見ない物、使わなかった物は捨てるべきなどと言い続けて来たのですが、これが実際に荷物を前にすると決心が付かないことばかりです。洋服類は比較的決めやすいのですが、それでももったいないと思う事もあり、終いには目を閉じて見ないようにしてゴミ袋行きです。アルバム、書籍類、靴などなど、整理しつつ考えさせられる事ばかりです。

 最もやっかいな物は、子供たちの学生時代の私物とか、自分自身の若い時に使用していた私物です。それと母の形見の品でしょうか。中でもとても迷った物の中に、自分が高校生の時に使っていた油絵の道具がありました。筆や絵の具はあきらめがつくのですが、パレットを開いてみると当時のままで、絵の具がパレット一杯についたままでした。一瞬、見なかったことにしようと閉じたのですが、再び見返すと私の青春時代の色があふれていて、そこにすべてが閉じ込められたままなのです。いわば私の原点が存在しているかのようです。ぽいとゴミの中には入れられなくて困っています。

 このように他人にとっては何も感じないが自分にとっては貴重、というところが他人に任せた方がよいということなのでしょう。そんな品々が山ほどあるのを見るに付け、また数え切れないほどの捨てるゴミ袋を見て、人は荷物の中で埋もれながら暮らしてきたのだと思わずにはいられません。この延長線に、よく世間で話題になるゴミ屋敷の住人の問題があるのでしょうか。

 それからひどく考えさせられたのは、立派な書籍である百科事典や辞書、図鑑の類でした。求めたときはそれなりの高価な本ですが、今となるとこの情報化時代、何でも調べられます。百科事典の内容そのものも古くなりすぎていて、現代では役にも立ちそうもなく、情報も陳腐化していたりするのには時代の流れを感じます。実際問題、私もそれらの本を開く機会など無くなっているのです。
 美しい挿絵の本や、時代を超えても価値ある本だけを残すことにします。童話集や子供の本も若い頃苦労して集めたのにかび臭いとか、くしゃみが出そうといわれてしまうのには悲しい限りです。

 このように物を捨てるというのは、思い出も捨て去り忘却の彼方に押しやる事なのだと実感しています。時には思い出の品々は過去の自分の分身でもあるので、その小さな分身のかけらを捨てるに等しい、捨てる勇気を持って行う作業に違いありません。そしてまだまだこれは延々と続きます。

 せめて八月に入り気温が涼しいのが作業を進めるのには救いとなっています。秋になればすっきりと物が片付き、自分自身も生まれ変わる事を想像して今月は片付け月間に徹しましょう。