2014年9月29日月曜日

雑草の定義



秋が日毎に深まるにつれて秋の花々が咲く景色が見られます。
あら、こんなところにと思われる場所に思いがけなく花が咲いているのを目にする日々が続いています。道端に、細い路地に、空き地にと都会でも様々な花が見られます。

大体は咲く花の名前は分かりますが、何の花だろうと分からなければ私は一生懸命に名前を調べます。そして分かると嬉しくなり一つ知識が増えて特をしたような気分になり、いくつになっても知らない事ってあるのだと、ますます嬉しくなり脳みそにしわがひとつ増えたと実感します。

人はどこにでも蔓延る草花を「雑草ね」のひと言で片付けてしまいますが、私はそうは思いません。どんな草花にも特徴があり美しさが見出せ、一体普通の花と雑草の違いって何だろうかといつも疑問に思います。

どこの所からの線引きで雑草と片付けるのか、よく分かりませんが、辞典によれば雑草と決めるのはいくつかの定義があるようです。
まず、どこにでも蔓延り余り役に立たないですし、防災上、景観上の問題を起こす、また人里植物とも呼ばれるようです。

蔓延る強さ故か帰化植物も雑草と多く呼ばれています。
挙げ句の果てにもともと利用価値がなく有害無益な一群の草とばっさりと言われてしまうので、何だかそんな言われ方は悲しいし、どこにでも蔓延るのがそんなに悪いのかと思います。
農耕地においては、迷惑で邪魔なのかも知れませんが野山に自生する草花には可憐な花がいっぱいあって我々の目を楽しませてくれます。

どんな花にも名前がついていますが、中には酷く変な名前をつけられているのもあり、とかく雑草への命名には学者は冷淡でどうでもよいみたいな可哀相な名前を付けるのもあります。
変な名前がついていると私は勝手に変えて自分だけの呼び方にしてしまいます。たとえばドクダミは十字架草とか独断で心の中で呼んでいます。

最も可哀相なのはオオイヌノフグリです。あぜ道に咲く可愛い瑠璃色の花なのに、その実が犬のふぐりに似ているからってその呼び方はないだろう,学名としても酷すぎると憤慨してしまい,人にこの花の名前を教える時に私はいつも口ごもり躊躇すらしてしまいます。
 私だったら学名とその花の色から取ってヨーロッパの原産だそうですから小瑠璃ベロニカとか呼んだら可愛らしくて良いのにと思います。

これもかなり昔の帰化植物で雑草と呼ばれていますが春のあぜ道に咲く姿は可憐です。


秋になったらとたんに雑草と言われて結構きらわれている「ヨウシュヤマゴボウ」が工房の狭い空き地にも大きく枝を広げて伸びています。

切っても切っても毎年ちゃんと復活し、逞しい草というには大き過ぎますが木ではない種類です。
四方八方に伸び、房状に花を付け、やがて実を付けてそれはまるでヤマブドウのようにもみえ、いったいどこからやってきたのか、定かではないですが放っておくとどんどん伸びてやがて狭い庭が一面に被われてしまいます。

実が熟すると真紫になりその実をつぶそうものなら紫の汁が出て服についたら大変なことになります。しかしながら、その逞しさにはどこか惹かれるものがあり、私は毎年秋になると悩むのです。実が熟し、たわわに下がる頃には特にどうしたものかと思案します。
思い切って根こそぎ刈り取ってしまおうか、いや可哀相だ,少しの間実にさわらないようにして大きな花生けの中に活けてみようかと。

そして、またその季節がやってきました。
実が弾けて濃い黒紫の汁を見ると、まるで紫色の血液のようである強烈さにたじろいでしまいます。北米からの帰化植物で毒性もあり、どこにでも空き地や野原があれば増えるので多くの人が目にしていると思います。

先日、玄関脇に枝が伸びすぎているのを見てそろそろ枝を切ってしまおうかと眺めていたら、丁度いらしたお客様が「一枝下さいませんか、明日はお茶のお稽古があるので飾りたいのですが、、」とおっしゃったので,それは光栄なことと喜んで差し上げました。
こんな使い方もあるのだと床の間に茶花として飾られたらヨウシュヤマゴボウもさぞうれしかろうと思います。

私は最後には大きく枝を切って玄関の上がり口の花生けに活けるつもりです。
人の衣服に触れないように気を付けながら飾りその逞しさを讃えるつもりです。
まさに雑草の女王のような存在感すらあります。

そして全部を根元から刈り取りますがまた来年ぐんぐんと出て来るのは分かっているので少しも可哀相ではありません。

雑草と言われる花と大事にされ誰にも愛でてもらう花の違いは人が決めた事で、いまだに、はっきりと私の中では判別ができません。しかし雑草と、ひとくくりにされてしまう草花の全てに愛着を覚えます。
その逞しさは土の匂いがする紬の素材に合うだろうと思うので順番に帯にでも表して行こうかと漠然と考えています。

野山に勝手に咲き乱れる雑草が大好きで愛しく思える秋がやって来ました。

2014年9月13日土曜日

昼夜帯は絶滅危惧種


本日、名古屋のCBC放送(TBS系)の情報番組「花咲かタイムズ」の中で、あらた工房の「昼夜帯」を紹介をして頂きました。


伏見にある圓珠さんの「昼夜そば」と一緒に紹介されました。有名なお蕎麦屋さんだそうで機会があればぜひ伺ってみたいです。


  ところで昼夜帯を知っていますか?

 昼夜帯とは元々明治から大正時代に存在した帯で2本の帯を貼り合わせた形です。
現在の市場ではほとんど流通しておりませんが、当工房では未だに制作をしております。(今回、紹介された作品は、手まり菊に水鳥能衣装図摺箔)

当時の昼夜帯は、片面が黒繻子という生地で、それに刺繍などをほどこしてあるものが多かったようです。表も裏もなくどちらも表にも裏にもなりえる、リバーシブルといった方がはわかりやすいのですが、和服の世界ではリバーシブルという言葉はなかったので、昼夜という響きが素敵なので使われたのでしょう。


  工房に現存する大正時代当時の昼夜帯もありますが、それは両面とも黒地です。
両面の柄が全く違う柄で片面が塩瀬、そしてもう片面が黒の繻子の生地となっています。

 昼夜というネーミングは随分と昔からある呼び方の様ですが、片面が黒いので夜に見立てたのかとも思います。それに対してもう一方は華やかに昼を表したのでしょうか。
 いずれにしてもおおよそゆきの帯と言うよりは、毎日の着物の暮らしの中で、すこし砕けた遊び感覚の帯であると感じます。

 昔からある昼夜帯のエッセンスと遊び感覚を現代に生かして見ようと、工房ではかなり前から色々な種類の昼夜帯に挑戦し続けております。あくまでも両面使える帯であることが特長なのです。

 ただし昔のように片面が黒繻子ではなく、両面共がそれぞれ主役でどちらを締めても表に成りうるということです。その為に様々な工夫が必要です。まず締め易いこと、帯が重くなりすぎないことが大事です。
 現在も昼夜帯を制作している工房も少ないので、興味があればぜひご覧下さい。