2013年12月29日日曜日

歳末風景


 間もなく今年も終わろうとしています。28日の御用納めも土曜だったせいでずいぶんと早くからお休みモードになった上に1月は日曜日が5日なのでとても長い休暇にどこもなるようです。ずいぶんと昔と様子が変わりました。大晦日まで仕事にかけずりまわっていた時代が嘘のように思えます。
  暮れの忙しさは淡々として来てお正月の華やかさも昔より静かです。何十年か前までは、大晦日の賑わいをテレビでは美容院で髪を結う人たちで大忙しの映像が流されていた気がします。結い上がった日本髪で初詣に行く人もありました。
  美容院は朝から目の回る忙しさでした。今は仕事始めにキモノで出勤もなく、お年始に親戚やお世話になっているところに改まって年始のご挨拶に行く人の姿もそう見かけなくなりました。
 どこの家庭も思い思いにのんびり過ごしたり、せいぜい親のところに行くくらいになっています。それらの風習が良い事か、昔のお正月の過ごし方が良かったのかは時代が変わったので何とも言えませんが、少なくとも新しい年を迎えて何か改まるということが極端に少なくなったのは事実です。
  全くの自然体で暮れを迎えてそのままお正月が来るという風です。昔から変わらないのは初詣や年賀状のやりとりぐらいでしょうか、お正月には晴れ着を着るという習慣も薄れて行くようです。
  歳末風景の慌ただしさ、賑やかさはめっきり目に入ってこないのはきっと商店街がさびしくなったせいかしらと思えます。 個人商店はどんどんと減る一方で大型のスーパーに取り込まれてしまうので路上に、人々が行き交いかいものをするという風景が見えて来なくなったのでとても静かに暮れは過ぎて行くのでしょう。

  それからこのくれにふと気が付いたのは大きな会社や銀行の前に立派な門松がなくなってしまったなと思う事です。大きなお屋敷や門構えの家の前ではこの時期には鳶の人たちが門松を作り上げて行くのが見られたもので、私はその作業に見とれて暮れの忙しいのに何だか人の家の門松なのに嬉しい気持でながめていたっけと思い出すのです。
 今思うととてもよい風景だったと思います。世の中が段々簡略になって雪ただ印刷された賀正の紙だけ貼るのは返って形式だけが重んじられて心をどこかに忘れてしまったように思えますがどうなのでしょう、子供時代に鳶の親方たちが門松をたてているのをみていると、お正月はもうじきだと感じさせ嬉しいような気分にさせて、わくわくさえもしました。歳末の行事一つ一つが全てお正月を迎えるためのものでした。

  おせちのセットが売られたり家族で海外に出かけたりする世の中になったのには今や普通の風景となりました。子供の頃三が日は外出はしないように、そうしないと一年中出歩いて落ち着かない娘になってしまうからと親に言われたのはなんだったのでしょうか、私はかなり長いこと言いつけを守り娘時代は三が日が済むまでは家に居てそれから外出したのです。お年始に見えるお客も必ずあったので家を空けることなど到底考えられなかったのです。
 その後、お正月は家中で旅行に行く時代になりその過ごし方もあるのだと思えるようになったのはかなり経っての事でした。でも今思えば家族が寄り添いゆっくりと過ごせた三日間も大事な事だったと思います。正月の過ごし方も様々となり、各家庭がそれぞれに過ごす世の中になったのは、自然なのでしょう。
  私なりに過ごす歳末やお正月であろうと、無理せずに行こうと考えています。元気で家族がお正月を迎えられるならばそれで充分と思っています。
 誰でもが良い年を迎えられることを願って今年最後のブログとします。来年もあらた工房をよろしくお願いします。

2013年11月30日土曜日

12月のスタートは「樅の会」から



 11月に別れを告げる日となりました。明日からは初冬と呼ぶのでしょう。そして今年最後、あらた工房での展示会が12月1日から8日までの期間スタートします。
 秋から冬へと師走に入る心の準備をしています。菊もすっかり残菊となり香りも立たなくなってきました。
 昨夜は学士会館で会食会があり夜に出ましたが、襟元にすーすーと冷たい風が首筋をなぜて行きました。
 工房内にも師走から新春にむけての作品を展示し始めました。加えてコートも種々並びました。もうコート無しでは出歩けません。


先週末には山のアトリエもすっかり冬支度となり、これから半年ほどの眠りにつくのです。すっかり落ちた落葉松の葉がベランダに深く積もりお掃除をするのも大変でした。落ち葉も重なれば重くて何度も掃いては捨てたので腕が痛くなるほどです。
 冬の間に山から鹿が下りて来て庭の木の樹皮をたべなければいいなと思いつつしばしの間山のアトリエともさよならをして来たのでした。

  そして東京の仕事場では、既に来春のことを考えて心は桜に向かい春の景色を想い描いています。 12月のはじめは秋と冬とが入れ替わる大事な時でもありますがまだ気忙しくなる前なので、皆さんに立ち寄って頂いてお茶でも飲みながら今年を振り返ったり来年への希望や楽しみを語らったりする1週間になって欲しいと思っています。そして今年1年の無事を共に喜び来年も元気で過ごせれば良いと願うのです。
  年毎に1年間を過ごすのは驚くほど早く過ぎて行きますが、また1年という重みもより貴重に大事になって来るのも事実です。


 折から来年用の年賀の手ぬぐいが出来上がって来ました。いつものように臙脂色ですが干支である午は今年は図柄は横使いでメリーゴーランドの柄です。
 来年も楽しく、くるくると回る想いを託してます。さてクリスマスまで当分は街のイルミネーションを楽しむことに致しましょう。

2013年11月14日木曜日

目黒雅叙園にて「美しいキモノ」創刊60周年記念作品展



 11月13日には目黒雅叙園にて「美しいキモノ」(ハースト婦人画報社)の創刊60周年記念の記念作品展があり、あらた工房の訪問着も展示されていました。
 そのキモノを見がてら雅叙園でランチ会をということになり、16名の方が集まり、楽しく着物を見たり食事をしたりしながら晩秋の午後を過ごしました。



  長いもので着物雑誌「美しいキモノ」と関わってから35年以上も何時の間にか経ってしまいました。
 その間、日本の女性も大いに変化しましたが時代も大きくうねるように変わりファッションとしての着物、着る側からの着物の存在も大きな変化をもたらしました。




 着物を作り始めたのは、まさに前回の東京オリンピックが始まろうとしていた頃ですから、はや半世紀も経ったと言う事でしょう。
 大きく女性が変わったのは着物は誰かに作ってもらう、買ってもらうという受け身から、自分の目で選び求めると言う事でしょうか、これはすなわち女性の自立ということなのでしょう。

 今回、60周年記念作品にあたり染めた緑色の薔薇の訪問着は、そんなこれからの女性たちにエールを贈るつもりで染めました。けっしておとなしい着物ではありませんが、あえて自らの足で立つ女性を薔薇にたとえて作ってみました。機会があればご覧下さい。
 これからも今この時代を生きる女性に向けての着物づくりを心がけて行くつもりです。私の心のおもむくままに。応援して下さる多くの方に励まされる幸せを感じているこの頃です。

2013年11月1日金曜日

想いをあらたに



 いよいよ11月も始まりました。10月に到来した数ある台風も去り、紅葉もたけなわでこの連休には多くの人が紅葉狩りに出かける事でしょう。

 工房は31日までの着物新作展「秋のあらた会」が終わり、天候不順な中をいらして下さったお客様に感謝を致しております。ありがとうございました。

 私も今晩から山のアトリエに行き晩秋の景色を眺めてゆっくりしてきます。お酉様も今年は三の酉まであるようで作晩久しぶりに外出して気が付きました。
 この幟をみると11月だという事が実感されます。既に今日からは初冬といえる季節なのでしょう。

  そして、長いこと玄関前にあった工房の看板が28年を経て、だいぶ傷んでましたので、造形作家の深澤 義一さんにお願いして特注で新しく創り直して頂きました。

深沢さんの工房のホームページです。
  鍛冶屋 アトリエ ベガ

 銅板で囲まれ味わいのある渋い感じです。老舗のようなたたずまいで、満足ゆく仕上がりとなりました。
 これからの経年変化で緑青がふき、ますます味わいが出てくるそうです。
 前と大きく違うのは中からの照明がLEDになったことで、これから、夜も明るくあらた工房の名を照らしていることです。

新しくなった看板はまだまだ頑張って仕事を続けなくてはならないと工房の今後を想う決意の表れでもあります。
 そう言うと少し大げさかも知れませんが、この辺で意思表明をして、自分にも気合いを入れないとなりません。

 看板を作り替えたことは、毎日毎日をフレッシュな気持で過ごす私の信条である「日々これあらたなり」という自分の心に掲げた旗を、自分の為に振り続けてて、これからもやって行こうと思う証です。平成26年から先に向かっての記念の碑でもあります。

 秋晴れの陽差しの中、思いをあらたにする11月のスタートが始まりました。菊の大鉢が満開で11月の香を放っています。

2013年10月23日水曜日

台風ラッシュでも



 秋のあらた会も後半に入りました。次々と台風がやってきて毎日お天気がかわります。女心と秋の空とは言いますが天気予報が気になって思わず聞き入る日々です。




27日で終了の予定でしたあらた会が会期の後に来たいと言われるお客様が何組かあるので31日まで延期して、展示もそのまま31日までしておくことになりました。
 朝夕冷えて来た割には紅葉が進まないようです。今年は10月前半が暑かったせいらしいです。酷暑の夏も心配でしたが実りの季節には果物のできが良くて葡萄なども今年の秋は見事に大きく甘かったです。
 台風で多くの被害がもたらされて特に大島は大災害となり残念なことになってしまいました。自然の威力を思い知らされましたがが夜半に風雨の中に避難させるることに躊躇したという役所の話など考えさせられました。
 こういう場合の災害対策や危機管理は綿密に あらゆる場合を想定しないとならないことなります。

 そんな不安定な天気の最中ではありますが、工房のギャラリーでは紅葉の楓や色づいた木の葉やどんぐりの作品が秋をつげています。
 会期も少し日延べをしましたので台風の合間にでもお出かけ下さると嬉しいです。

2013年10月19日土曜日

江戸の華 海老蔵を観る



 さる10月17日の夜、市川海老蔵の舞台を観に行きました。古典への誘いと言うことで「保名」と「お祭り」の舞踊を観る事が目的でした。
 美しい美男子ぶり、水もしたたるいい男というのはこのような舞台上の海老蔵さんの事を言うのでしょうか、若さっていいなあ、とつくづく感じました。 特に舞踊「保名」は観てみたかったのです。


 まだ私が小学生の頃でしたか、当時はガラスのケースに入った。フランス人形と日本人形がどちらの家庭にでも飾ってあった事が多かったと記憶しています。デパートの人形売り場に飾ってあった素敵なドレスのフランス人形や美しい衣装を着た日本人形は憧れでした。

 紫色の素敵なドレスのフランス人形を買ってもらったのも嬉しかったのですが舞踊の「保名」の衣装を着けた日本人形にはとても心を惹かれました。
 その衣装を着けた「保名」は さながら先日観た海老蔵さんのようでありました。清元「保名」の衣装は子供心にも珍しく日本髪姿の地唄舞に出て来るような日本人形よりも不思議な色気を感じました。
 そしてこの踊りの内容を母が説明してくれて、どうしてこのようなもの狂いな出で立ちの衣装なのかも教えてくれたのでした。なるほどただならぬ状態の衣装だと言う事は子供心にもわかりましたが、それ故に不思議な色気を感じたのでしょう。
 特に母が教えてくれた病の時は紫の鉢巻きをするのよと教えてくれたことが印象に残っていました。青い月代、紫の鉢巻き、そして衣装のつけ方さえ素敵に思えたのです。
 その後先代の團十郎、海老蔵のお祖父様の「保名」の舞台も少女時代に観た記憶が残っていました。それで今回は海老蔵さんの「保名」も是非観たかったのです。
 「保名」は美男子でなければなりません。それも見所のひとつでしょうか、 先代の團十郎と海老蔵さんは本当によく似ていて驚きます。これからも活躍して江戸の華としてあり続けて欲しいです。

 お土産にはかつての海老蔵さんの舞台での花咲か爺に因んだTシャツがロビーで売られており、可愛かったので犬好きの私としては思わず買ってしまいました。



そして久しぶりに袷の着物を着ました。着物も帯も母のかたみで着物は銘仙で茶と黒の格子模様、帯は紅い蔦に茶古代色の縮緬の帯でした。母を思い出しながら既に70年は経ているだろうと思える着物と帯でしたが全く古くは感じさせない組み合わせと我ながら思いました。
 急に冷え込んで来てもうコートが必要な季節になったと感じながらホールを後にしました。母の30代の頃、子供の私に語ってくれた清元「保名」の話を思い起こし少しだけ母が恋しく物悲しい気分にもなりつつ帰路につきました。

2013年9月30日月曜日

小布から富士山続々と誕生


  9月28日と29日の両日は穏やかな秋晴れの中、工房主催(蜻蛉俱楽部)のワークショップ「富士山を作ろう」に多くの方が参加して下さいました。
 今年の春にの吊し雛展のお誘いに思いもかけずに多くの方が見にいらして下さったのにヒントを得て、今年、世界文化遺産となった富士山をテーマに工房で生まれる絹の端布を使い富士山の吊し雛をみんなで作ろう!との呼びかけにかくも沢山の方々がいらしてくださったことは嬉しかったです。 31名もの方々が参加して下さいました。
 エコの観点から何よりも小さな端布が生き、形になったことがうれしい事でした。どんな小さな布も絹は蚕が一生懸命作ってくれた糸ですから粗末には出来ません。

何回も染めて色が重なった生地の端を富士の姿に見立ててそれぞれの富士山が出来上がりました。
「赤富士」「夜の富士」「早春の富士」「紅葉の富士」「朝焼けの富士」「夜明けの富士」と、それは色とりどりに生まれて来ました。京都から取り寄せたお香や富良野から送ってもらったラベンダーなどを富士山の中に入れて、赤や白の糸で繋ぎ下げれば立派な吊し雛で、また匂い袋にしたり用途も様々です。
 下は小学2年生から上は70代の方々まで幅広く思い思いに創作していました。小学生の参加者には番外で貝を綺麗な布でくるんで作るのをお教えしたところ、
早速学校に持って行く手提げに付けたとの報告があり、写真が送られて、尚うれしい事でした。

 どんな小さな絹も大切に使われたのは、ものが溢れている時代に、かえって良かったと思います。

 次はいつ?というお声も聞かれましたので来春2月にはお雛様の前にまた趣向を変えて吊し雛の会が開けたらと早くも色々なアイデアが浮かんで参ります。
 工房で初めてのワークショップでしたが大盛況に終わり心地良い疲れの中、ほっとして9月が終えました。
 私も二日間大いに遊ばせてもらいました。今回、沢山の吊し」雛を作り、講師にもなって奮闘した妹の大里律子にも感謝です。思えば妹と共同で仕事をしたのも初めての事でした。

 日毎に秋が深まるのは朝の風の冷たさで感じます。夕食は新米と三陸から氷詰めで贈って頂いた秋刀魚を思う存分食しました。
 これで私の心も体も秋に入ったと実感致しました。秋刀魚と富士山に元気をもらい明日からはまた秋の新作の為に励もうと勇んでおります。

2013年9月24日火曜日

昭和時代の東京オリンピック



 9月上旬には7年後の東京オリンピックが決まり国中が湧きました。私も決定が気になってプレゼンテーションを真剣に聴いており、やはり決定したとなると素直にうれしく思いました。

 そして思ったのは人生の中で2度もオリンピックを東京で見られることはなんと素晴らしい事なのだろうと、青春時代にそして老いてからの老年時代にも経験できるのだと実感し、元気でまだ頑張らなくてはと思ったのでした。
 あの決定を聞いた誰でもが各々の7年後はどうなっているのだろうと思ったのではないでしょうか。若い人は希望を抱き老いた人はまだもう少し頑張るぞと思う気持になったのではないでしょうか。
 7年経つ間に何があるか分かりませんが7年という歳月は短くもなく、また長くもなく丁度良い年月と言えます。 先の昭和39年の東京オリンピックの頃はどうであったかとつらつらと思い出します。

 今みたいにロビー活動なんて言葉もなく、どんな経緯で決まったのかなど知るよしも当時の私にはありませんでした。突然のオリンピック景気に東京中がひっくり返るような騒ぎだったようでした。
 それまで見た事もない多くの外国人が東京に溢れると言うことで今思い返しても可笑しいのですが、お巡りさんが私の家に来てこの町に外国人に道を教えてあげられるような英語が分かる人がいますかと1軒1軒回って聞くのでした。

 当時、私は既に仕事をしていたのですが、道案内くらいは出来ると思いますとまじめに答えて戸籍係のお巡りさんも真剣に調べていたのが印象に残っています。
 戦後はじめて多くの外国人を迎えることに人々は緊張していたのでしょうか、今思うと笑い話のようなのですが、新宿区や渋谷区に割と近いせいか街が急激に変わっていくのが手に取るようでした。

 代々木の米軍の将校ハウスはオリンピック村となり、あちこちにある小さな川は埋め立てられて道路も広くなったり高速道路も出来て急ピッチで東京中は建設ラッシュだったし今よりももっと大変な騒ぎだった気がします。あの時代に比べれば日本もスマートになったものです。
 勿論インフラばかりでなく、デパートやお店もオリンピック景気に乗り遅れまいと様々に動いたのでした。
  その頃私は某デパートの某呉服部の仕事を盛んにしていましたのでオリンピックが始まる頃にはオリンピックに因んだ着物の柄を作るように頼まれて当時は今と違いデパートそのものが流行をリードするような時代だったので、オリンピックの柄たとえば聖火台や聖火を運ぶトーチの柄を小紋に散らして描いたりと真剣に染めていました。

似た柄を染め帯にも染めた記憶があります。半世紀も前の当時の図案が今でも探せばどこかにしまってありますが思い出す度になんとなくあの時の真剣さが微笑ましく思えて日本の良い時代だったのだとも思います。
 今だったらあんな陳腐な柄は作らないでしょうが、あの頃は全力上げて全国民がオリンピックに向かって取り組んでいました。冷めた雰囲気は感じられませんでした。高速道路、新幹線などオリンピックのおかげで出来たような物ですから活気もすさまじかったのです。
 そんな世間の空気や流れの中で私は生きて行くこと、オリンピックの前年の父亡き後の工房を守るのに必死でもありました。
 あの晴天の10月10日に開会式がありまだ珍しかったカラーテレビを見た母の友人がアンツーカーがとてもきれいだと、また行進の各国のユニフォームが素晴らしいと興奮して喋るのを聞いていながらも仕事に忙しくしていた自分には遠い世界の出来事を聞いていたような気がしていたことなどを記憶しています。
 アンツーカーなんて言葉は始めて聞く言葉でしたしカラーテレビもまだなかったのですがバレーボールの東洋の魔女の試合には私も興奮しました。こうしてみると半世紀なんてあっという間です。

 次のオリンピックは誰と見るのでしょうか。 明日の事は誰にも分かりませんが無事に7年後のオリンピックが見られることだけを今は祈りたい気持です。
 先の東京オリンピックを経験したものとして断片的にでもあの時代の空気感を伝えるのもまた自分の役目かなと勝手に思っているこの頃です。

2013年9月3日火曜日

9月の歌舞伎座で





「創立記念祭」が終わった明くる2日は、思いもかけず歌舞伎座にお誘いを頂きまして昼の部を観に行きました。まだまだ夏日の気温が続く中、日中は暑さを忘れて歌舞伎座の中で過ごしました。


 今年のこけら落としは4,5,6月と何度も歌舞伎座へ足を運び堪能しましたのですこしの間歌舞伎見物もお休み状態でした。そして三津五郎さんのご病気などのニュースもありがっかりしていましたが、やはり2ヶ月ぶりの歌舞伎座はいいものです。
 このところ何度も以前に観た演目を繰り返し観る事が多かったのですが、初めて観た演目「新薄雪物語」はとても面白く興味深く楽しい舞台でした。
 中村勘九郎さんと七之助さんは若さの中にもどんどん上手くなって行くようです。「吉原雀」の二人の踊りは華やかでどうかすると二人とも勘三郎さんの面差しが見られ、又勘九郎さんの声も勘三郎さんに似てきたと思われました。
 
 三津五郎さんのご病気で少し心配していた歌舞伎界も、若手は着実に育っているのだと海老蔵さんや松緑さん 染五郎さんの活躍も含めて実感した日でした。
 客席も暑い中でもずいぶんとお若い方々が着物姿でいらしているのを見て嬉しい限りです。お誘い下さいましたKさんも絽塩瀬の黒の帯で夏の花を乗せて走る帆かけ船の模様がきりっとしてよくお似合いでした。かなり昔に染めた帯を歌舞伎座で眺められるのは感慨深くもありました。



 暑いとは言え日が段々と短くなっていく気がします。これからはますます着物が着易い日々となるでしょう。9月の装いに関する質問やお問い合わせがとても多く寄せられています。袷に入る前の9月は組み合わせも様々です。
 9月に着られる着物や帯を悩まずに楽しんで見ましょう。初秋は秋の入り口です。爽やかに装いましょうか。

2013年8月22日木曜日

晩夏に咲く白い木槿


 8月も残り10日余りしかありませんが八ヶ岳での気温は低いせいか街中より2ヶ月ほど遅れてアトリエの玄関の北側に白い木槿の花が次々と日を追う毎に咲き始めて、行く夏を惜しむように咲いています。

もうこの木も植えてから20年ぐらいは経っていますから背も高くなり、いつも夏の終わり近くになるとやっと花を見せてくれるのです。花の中心の所は臙脂色というか牡丹色で白い花弁を引き締めています。
 白い花が好きな私が希望して庭には白のライラック、と山法師の木、そして白い花が咲く木槿を植栽してもらいましたが自生しているノリウツギも白く、コアジサイも白く地面いっぱいに咲くクローバーもマーガレットもチゴユリも白い花ばかりです。

 昨年は村のお蕎麦屋さんの庭からもらった10株ほどのハンゲショウも一株だけ今年は白い花を付けました。白い花ばかりに惹かれるのはなぜだろうかと考えて見るに絹布の白生地とつながるのかと思いました。
 まだ制作前の何色にも染まっていない白生地を目の前にした時の少しだけ厳粛なそれでいてワクワクするような気持ち、染めたいイメージを瞼に浮かべて白い生地を見つめる自分と、白い花たちを眺める気持はよく似ていると気が付きました。

 白い花の持つ清新な雰囲気も好きなのだと思います。近頃は日陰に群れるドクダミの花の白さにさえも惹かれます。染める前の真っ白な絹布は私に取っては絵を描く前のキャンパスを張り終えた時の感じとも似ています。
 白という色は無垢であり、それは画用紙でも同じです。白に対峙したときの気持の在り方、何か見えない物を自分に引き寄せるパワーを何時までも持ち続ける思いがある限り心身ともに元気がある証拠なのだと思うようにしています。これからも白い花たちに助けられることでしょう。

2013年8月9日金曜日

お盆を前に想う



 全国的にお休みが続くお盆が近くなってきました。全国民がお盆を迎え人々は西へ東へと移動して故郷に帰省したり、国内外へ旅に出たりと、人の流れは大きく動き海、山へのレジャーも賑わうのも8月の特徴です。それは暮れからお正月にかけての流れと二分しているようです。

 加えて年々気温が高くなり東京などは昔よりも3度も高いそうで、気候も大きく変わり全国的にゲリラ豪雨なる物があちこちで被害をもたらしているのも最近の夏の特徴です。
 さっと雨が来てさっと涼しくなるあの夕立の風情は全く無くて、ひたすら豪雨を恐れる話ばかり、と言ってもダムであるみずがめには集中して雨は降らず今年も渇水の心配がされています。

蝉がひがな鳴き、甲子園の野球がたけなわになると八月も盛り、これが日本の夏なのだと思わずにはいられません。何十年も同じ八月に流れる出来事や風物を感じながらこの夏も乗り切れるかなと、猛暑のなか、ひとり考える月です。

 毎年のように8月の前半は過去の日本の歴史の話題が多くなってきます。広島、長崎が受けた原爆の被害、被爆者の苦しみ、平和への祈りなどまた、終戦記念日が近くなるにつれて先の戦争はどうであったか、と様々な角度から検証された話が報道される機会が多くなります。
 懐かしい人たちは遠く遠くへと旅立ち今は記憶の中にあり、ふっと思い出すこともありながら故人を偲ぶというよりも、それほど遠くもない世界にだんだんと近づいて来たなとも感じるのもやはり長いこと生を受けてきた証でしょうか。

 かろうじて終戦前に生まれた私は戦前派、戦中派、戦後派のどこに位置するのかと家人に聞いたら、戦争の記憶がないし戦後に育ったから戦後派になるのではと言う意見でした。
 私の初めての記憶ではほとんど動物のいない上野動物園で見たキリンの長くて黄色い首の印象的な記憶があり、その後はずっと飛んでおそらく小学生低学年の頃でしょうか。

 見渡す限りの焼け野原の高田馬場で秋桜が沢山風になびいていたこと、電車の中で会った当時進駐軍の兵隊さんに頭をなぜられてチョコレートを差し出されたことに子供心ながら妙な屈辱感を感じたこと。
 父が戦地から帰り、足に機関銃の弾がいくつも貫通してその弾痕が冬になると疼くので、時々、母の代わりに自分がマッサージをし、父の足に触るのは余りよい気持ちではなかった幼い自分が、戦争の事について何も分かっていなかったこと。
 父は戦地の出来事はひと言も話してくれなかったこと。今に想えばもっと聞いておけば良かったと思い出されます。

 しかし東京オリンピック前に早世した父を考えれば戦地での10年間が体を痛ませる原因になったことだけは確かです。
 戦争そのものの記憶はなく乳児の時に岩手に疎開させられて母は一人で慣れぬ土地で大変だったそうで全ての着物は食料に替わってしまったことだけは戦後に良く聞かされました。
 よく戦後何十年という言葉を聞く度にまるで自分の歳そのものを言われているようなこそばゆい気が致します。
 僅かですが戦後人手に渡らずに残った母の着物は今でも箪笥の中の守り神のようにして鎮座しています。戦後の歩みと共に生きて来た私ですが毎年同じような夏でもすこしづつ違っています。
 今年も真っ白なサルスベリの花がふわふわと8月の風に揺れてなにごともなかったように時折散っています。白い花は心を静めてくれるような気がして好んで植えます。白いライラック、蒼白い山法師の木も山のアトリエで私の心を癒してくれます。今年のお盆も大きな災害もなく無事に開けますようにと願う8月です。

2013年7月19日金曜日

200年前の「夏の小袖」



 先日お客様から、かなり古い200年は経ている夏の小袖を預かることになりました。預けられたお客様は出身が鹿児島の旧家の方で、とても長いこと箪笥の奧に保存されていた夏の小袖を、取り出したがどうしたものかとのご相談でした。
 何でも島津藩のお屋敷に当時、行儀見習いに上がった方、つまり持ち主の何代か前のお祖母様の物だったと伺っております。
 ゆうに200年は経っているはずとのことです。持ち主が今70代後半ですからよく今まで綺麗に保管されていたと感じました。


 この小袖は盛夏のもので柔らかな風合いがありましたが素材は麻です。 藍色一色で御所時模様が描かれている涼しげな小袖です。
 この小袖は盛夏用ですから帷子(かたびら)と呼ばれていたものと思われます。夏の帷子には「細染」または「地白」とがあるようです。確かに地は生成りとはいえ、白地のようです。
 柄の御所解模様は昔から描かれている普遍的な模様ですが、柄は型染めのように見えます。
 お袖が長くて若い人が着用していたのでしょう。お局での部屋着として、おはしょりをせずにこのまま引きずって着ていたと思われます。



 当初は私のところで提案している「今昔の会」の一環として古い着物を見直して現代に甦らせるという事で相談されたのですが、果たしてこの当時の小袖を今の形に直しても着る意志のある方が、周りにいられるのかはちょっと考えられません。
 素材といい柄といい、現代の形の夏の着物に作り替えるのも可能ですが、これほど古い小袖はあまりなく、貴重なのでこのままの形で後世の方の参考になるようにも思うので保存しておいた方が良いかと解くのには少しためらいます。

 着物の歴史としてこのまま保管するのが望ましいかと思案しています。写真に収めたのでこのブログ内でお見せ致しますので、着物を愛して止まない方のご感想も聞きたいと思っています。 この季節に相応しい古の夏の小袖のお話でした。

2013年6月30日日曜日

懐かしの「中原淳一展」に行く



 梅雨の晴れ間を縫って横浜のそごう美術館に「中原淳一展」を見に出掛けました。中原淳一「それいゆ」と聞くと、とたんに自分の中学生時代を思い出します。
 「それいゆ」というあの本が私の中学時代にはバイブルの様な存在でした。一寸変わった大きさの本で、毎月この本が届くのが楽しみでした。学校へ持って行き、友達と本の隅々まで読んだりして胸がわくわくするようなお洒落な情報を得て単調な生活の中で最も刺激的な話が満載で、素敵な服のスタイル画に憧れました。



 私の世代の方は皆さん読まれていたことと思います。彼のデザインの服はどれも素敵で少女の心を華やかにしてくれました。
 制服しか着なかった毎日の中でたまのお出かけは私服でお洒落をしたいと思っても少女の夢に合いそうな服は当時ありませんでしたから、両親にデパートで買ってもらったスカートは今でも記憶の中にあります。
 彼のデザインのスカートは絵から抜け出てきたようで大のお気に入りでした。 きれいな空色の厚手で上質な木綿だったのか、形は大きく広がる全円のスカートで所々にレースの白い花の形のアップリケが施されていて、くるくる回るとサーキュラースカートは大きく円形に広がりそれは嬉しかったのを思い出します。



 白い提灯袖のブラウスを着て、白の籐のバッグを持ち白い靴でその頃ロードショウで「ウエストサイド物語」を観に連れて行ってもらったのです。
 映画も衝撃的でしたが精一杯お洒落をして出掛けた浮き浮き感と空色のスカートが忘れられません。少女の私の第一装でした。あのスカートはその後どうなったのでしょうか、青い空に飛んで行ってしまったのか妹にあげた記憶もありませんから、ただただ懐かしく想い出すだけです。
 中原淳一のデザイン画から抜け出たあのスカートが私の中学時代の唯一華やかな思い出でした。 そんな数々のスタイル画を今回の展覧会で多く目にし、少女の独特の表情をした挿絵の数々、本の表紙は見応えがありました。



彼の描く少女は一様にあごがとがった様な三角型の顔の輪郭に大きな目がパッチリとしています。今みると少女漫画の原点のような顔にも見えます。
 当時デビューしたてだった女優の浅丘ルリ子さんにも唇が似ています。そして人気があったオードリー・ヘップバーンにも似ている気がします。芦川いずみさんも「それいゆ」に登場していました。
 女優さんは憧れの遠い世界に住む人たちですから、私たち読者は「それいゆ」にお洒落の提案で書かれていた記事の中でエプロンのいろいろとか、少女の部屋のインテリアや、ヘアースタイルの挿絵など日常的な事に興味を惹かれました。
 昭和30年台に少女だった私たちに影響を与え夢を持たせてくれた雑誌で、まるまる私の中学時代でした。
 その後は高校生になると外国からの雑誌に影響を受けて行くのですが、今思うと幼さが残る少女の時代が懐かしいです。

 展覧会では数々の表紙を飾った絵を一同に見る事が出来て、私と同じ世代の方々が訪れて熱心に見ていました。 展覧会を見終わると元町に出て馴染みのお店でランチを取りましたが梅雨の晴れ間のちょっとした小旅行のような6月を終わらせるノスタルジックな一日でした。
 まもなく盛夏に入ります。梅雨明けはまだまだ先の事なのでしょう。紫陽花もそろそろ盛りを過ぎて、今はハイビスカスの鉢を楽しんでいます。

2013年6月20日木曜日

今昔の会に想う



 あらた工房では今、夏の着物新作展「夏のあらた会」+古い着物の相談会「今昔の会」を開催していますが、残すところ3日ほどとなりました。
  毎年6月恒例の「今昔の会」は、多くの職人さんたちの力を借りて古い着物の再生を手がけています。
 昨日はどさっとお客様から昔の着物が届きました。ご自身のお母様のお若い時の着物ばかりです。さて、これらをどのように現在のお客様の着物に再生するか、これから相談が始まります。


 どの着物にも思い出が詰まっています。縁のある方がまた引き継いで行くことが最も望ましいことと私は思っています。
 やむなく他人の手に渡ることもあるでしょうが、着物1枚1枚の事を思えば処分されたりされるよりは、ゆかりのない方に渡っても役に立てれば着物自身は嬉しいかも知れません。古い着物が捨てられることのないようにといつも考えています。

 今から手をかけて昔の着物を再生すれば、冬にはまた新しい着物になっていくつかはお客様の手元に戻る事でしょう。私自身も楽しみなことです。

 私にとってもこの6月の「今昔の会」は、着物について色々と考えさせられる特別な月です。そして次の作品への意欲をも養える大事な季節です。
 梅雨空で外出も少なくじっくりと昔の着物と向き合える気がします。これは私の思い込みかも知れませんが1枚ずつ着物をながめていると着物が私に色々と語りかけてくる気がしてくるのです。

 「今昔の会」の仕事は地味なのですが着物に恩返しと思っております。昔の着物と対話できるのは私だけの特権かなと自負しています。

 先日友人が届けてくれた紫陽花の切り花も毎日水切りをして保っていましたがついに終わってしまいましたので今度は黄色いハイビスカスの鉢を置いて見たら一気に夏らしい気分になりました。さぁ、もうひと頑張りしましょう。

2013年6月10日月曜日

木曽の漆器祭り



 梅雨時と言いながらも晴天に恵まれて木曽平沢の漆器祭りに行きました。緑の濃い山間を抜けて行くと谷あいにひしめくように家々が並んでいます。


 平沢地区には9時に着き少ない駐車場を確保してから村落の両側に立ち並ぶお店を眺めながら何か気になる漆器はないかなと左右を見ての往復は楽しいものです。 それぞれの家の職人さんたちが熱心に漆器を並べて説明してくれます。
 どの家も家族中で暖かく、一生懸命迎えてくれます。ウド汁を振る舞われたり素朴な蕗やイタドリの山菜を勧めてくれます。山間を流れる清流が時々涼しい風を運びます。 



もう何年もこの木曽の漆器祭りには通い続けていて器はもう使い切れないほどあるので最近は大きな物やインテリアの品に目が行きます。いつもひらめいて手に入れます。
 今年はランプシェードというのか木に紅い漆を塗ったシャープな形に惹かれて求めました。



 夕方には山のアトリエに戻り友人たちと早々と夕食作りをして山菜の天ぷらや持って行った鱧を天ぷらにして話が弾みました。
 山ではレンゲツツジも終わり十二単も終わりかけて、白いマーガレットやミヤマアカツメグサそして卯木の花が咲いています。中でも斑入りの葉を持つ薄紅色の谷卯木が何とも爽やかで浅緑色の葉が美しいです。
 野薊もぐんと葉が出て来てその新芽を摘んでこの時期恒例の天ぷらの食材になりました。カッコウにウグイス、時折啼く雉の声が響き渡る山の初夏です。まだ紫陽花も花芽が見えず待ち遠しいですがベルガモットが大分増えて来ているので7月が楽しみです。

 今年の梅雨は空梅雨なのでしょうか。それも困りますが雨は寝ている間に一生懸命降ってくれれば良いのにと都合の良い事を考えてしまいます。空梅雨では作物も実らず貯水池も干上がってしまうから心配です。
 葡萄や桃は甘くなってくれるでしょうか、はや6月も三分の一過ぎてしまいました。

 今週からは、夏の新作展「夏のあらた会」と、古い着物相談会「今昔の会」がはじまります。梅雨の晴れ間にお客様がいらして下さると嬉しく思います。

2013年5月26日日曜日

瑠璃の会「小粋にタンゴ de 神楽坂」



  工房主催のイベント、着物で遊ぶ「瑠璃の会」〜小粋にタンゴ de 神楽坂〜が5月25日に開催されました。 半年ぶりの開催です。


毎回、違う場所で色々なジャンルの音楽の公演を織り交ぜて開催しておりますが、今年は珍しく神社のモダンなホールで、アルゼンチンタンゴとイタリアンコース料理の組み合わせで総勢72人の着物姿の方々が集まりました。

 アルゼンチンタンゴに酔いしれて楽しく午後のひとときを過ごしました。
 バンドネオンの暖かい響きが体に染み入り、歌も情熱的にピアノとヴァイオリンも素晴らしく、またお料理も美味しく参加者の歓談も弾んで皐月の午後はあっという間に過ぎて行きました。お天気に恵まれてほっとしました。
 瑠璃の会に参加して下さった72名の皆様ありがとうございました。近日、瑠璃の会のページにて当日レポートお伝えします。お楽しみに!


2013年5月8日水曜日

懐かしのブライダルベール



 ゴールデンウイークも遊んでいるうちにあっという間に開けて初夏の陽差しと新緑に溢れる五月もはや、三分の一が過ぎました。 このところ老木の椎の下にはいつもの年より緑濃い葉が地面を覆い尽くすほどに茂っています。


吊り鉢に下げていたブライダルベールの葉がいつのまにか地面いっぱいに広がって可愛らしい白い花を咲かせています。
 増やそうと思ってしたわけでもないのにいつの間にか鉢から降りて来て、横にどんどん広がっていったのはこの場所が気に入っているからなのでしょう。

 昭和50年前後だったでしょうか、鎌倉の友人宅にあった吊り鉢で見たのが初めてでその名のロマンチックな響きと鉢から下がる濃い緑の葉に小さな白い花がいっぱい見えていて本当にブライダルベールと呼ばれるに相応しい姿に憧れた記憶があります。
  メキシコが原産地でツユクサ科ということですが確かに3弁の白い花びらはツユクサに似ています。



 今は鉢から下がるどころか一面に地に蔓延っていますから、若い時にあんなに心ときめいた鉢だったのにと思い出し.これでもかと咲いているブライダルベールを眺めているとあの頃の20代の自分を思い起こしします。
 当時の吊り鉢の園芸の仕方がとても新鮮でお洒落に思えたこと、鎌倉の地によく似合っていたガーデニングだったこと、頼んで少し分けてもらい持ち帰ったあの時のブライダルベールの生き残りが今になって復活したのかもしれません。

 懐かしい気持と憧れた花だったブライダルベールが溢れている小さな庭を前にしばし、しゃがんでひとり感慨にふけって見つめている連休明けの日々です。

2013年4月25日木曜日

歌舞伎座こけら落とし第二部を観て



 新歌舞伎座で4月に再び一部に続き第二部を観る事になりました。一部の時は最前列だったので他の客席は眺めることは出来なかったのですが、今回はほぼ真ん中の列ぐらいの中央での席だったので客席や花道、左右の桟敷席も良く眺められました。


やはり椅子の前の空間が広くなったのは嬉しい。以前は席を立つとき苦しいし、他の席の人に悪いので遠慮がちだったのが難なく動けてそれだけは楽です。


  二部では「弁天娘女男白波」は菊五郎さんの安定した弁天小僧が良かったけれど、私には「忍夜恋曲者」の玉三郎さんが印象的でした。
 人間国宝になられた玉三郎さんはずいぶん若い時から観ていますが相変わらず綺麗で優美な姿は素晴らしいです。
滝夜叉姫を演ずる衣装は三つ重ねのたっぷりとした衣装でその髪型も重そうでよくもあれほど動けるものと感心します。
 そして大がかりな舞台装置は新装なった歌舞伎座の大道具の醍醐味を見せてくれます。きっと最新の装置が使われているのだと思わせます。何でも奈落は四倍ほどの深さになったと聞きましたが舞台裏も見てみたくなります。

 以前、楽屋見舞いに三津五郎さんの楽屋を訪れた時にはずいぶんと道が狭くて出番を待つ役者さんが行き交うのも大変なのだと記憶しています。そのあたりも改善されているのでしょう。
 客席から見える舞台だけではなく舞台の裏側に興味が湧きます。今回のこけら落としはひとりでも観客を動員したいという松竹さんのお考えであることは分かりますが、三部構成というのは何か忙しない感じがします。この構成は何時まで続くのでしょうか。
 私はやはり二部の構成の方がゆっくり出来て今までの方が好きです。芝居見物はゆっくりと楽しみたく思います。休憩時間がせかせかと短いのはかえって落ち着きません。今後の運営はどうなるのか気になるところです。

 五月は休みが多くてなかなか芝居を見に行かれませんがまた六月には海老蔵さんを観に来たいと思っています。もう幾日かで五月になりますが、しばらくは目を戸外に向けて新緑を楽しむ事に致します。

2013年4月12日金曜日

諸葛菜と草の王



 すっかり葉桜になり緑が芽吹き、葉や草の勢いが感じられる気候です。
はこべも庭の片隅で元気にやわやわとした葉を盛んに伸ばしています。はこべを見ると少女のころ家で飼っていた鶏の餌にはこべを摘んできては刻んで他の餌と混ぜてやる役目だった自分の事を思い出すのです。いかにも柔らかくて、食料の無い戦時中はこんな草も食べていたのではと思います。

 雑草と一口にいってしまいそうな草は確かに逞しく突然に降って湧いたようにある日沢山に増えてその花が咲くときにやっとその存在に気づかされるのです。我が家の小さなスペースの庭と呼ぶほどでもないのですが大きな2本の椎の老木の下には様々な雑草がはびこります。今年の春に目立つのは紫大根と呼ばれる諸葛菜と草の王の黄色い花で同時に椎の根元で競演していることです。
 絶対に花屋さんでは売っていない花々を居ながらにして眺められ楽しめるのは案外贅沢ことかも知れません。


紫大根の花は素敵な名前である諸葛菜という別名を持ちます。その昔三国志に出て来る諸葛孔明が荒れた戦地にこの花の種を蒔いていったといういわれがありますが元々中国から渡って来た植物なのでしょうか。薄紫の柔らかい花は明るい緑の葉に映えて春らしい景色となります。


 そして黄色い4弁の花びらを持つ草の王はこれまた立派な名で何故かと思えば薬草として実際に使われたそうで尾崎紅葉が癌の治療薬として用いたと言われているそうです。毒を消す効能があるとのことですがそれで草の王というのでしょうか。

 都会の真ん中で見られる雑草の類に入るようなこの花々は今となっては貴重なのかもと思うのですが、では一体どこから運ばれて来たのでしょうか、不思議です。椎の木に囀る野鳥が落としていったのかもしれないと今日も高い梢で盛んに囀る鳥たちの姿を目で追って見るのです。緑の葉はエイプリルシャワーを浴びる度にぐんぐんと成長をしてやがて初夏の兆しを感じさせることでしょう。


 紅い新芽の枝垂れ楓も日に日に葉が開き大きく広がり塀の外まで下がりはじめこの楓も今の季節の中では楽しみな景色です。沢山種類がある楓の中でも「手向け山」と呼ばれているようでこちらも素敵な名前でお気に入りの木となっています。小さな庭の四月の移ろいを楽しんでいる日々が続いています。

2013年3月21日木曜日

桜、花桃、椿の競演






弥生も残り10日ほどですが、春の花が出そろい、桜も花桃も八分咲きで最も綺麗な季節です。 ぼちぼち藪椿も咲き、隣の公園ではもう桜がほとんど満開に近く、隣にはハナミズキの白い花も見え花々の競演にはしばし見とれてしまいます。 命の輝く春は何にも代え難く、プリマベーラ万歳と叫びたい気持に駆られます。
 



 先週は横浜近くの古民家コンサートに出掛けました。ドレスコードが着物という素晴らしい会でした。3月に入り音楽も舞台も次々と目白押しに予定が入り、加えて新歌舞伎座のチケットも届き始めてくるとうれしさが倍増して「さぁ頑張りましょう」という気分がいやがおうにも高まって来ます。

  厳しい冬があったからこそと思うと東北や北国ではどんなに桜が咲くのが待ち遠しい事だろうと思われます。 静かな春の日々はいつまで続くか分かりませんが当分は桜が散るまで楽しもうと思うのです。



 折から春の「あらた会」が開催中ですから、いらして下さる方とゆっくりお話する時も、出窓から春の陽を受けて咲く枝垂れ桃が目に入り、その可愛らしいことと言ったらありません。まるで少女がそこにはにかんで立っているようです。紅白の咲き分けが少女の頬を思わせるのです。
 日中はなかなかゆっくりと外出が出来ませんが夜桜見物には行こうと風の無い夜を待っています。そうこうするうちに花粉症も治まってくることでしょう。
 春はまた再会の季節でもあります。先日久しぶりに小学校の同窓会を開こうかという打診がありました。半世紀以上も経て未だに小学校の友達は全く子供の時の印象のままです。生きているって素晴らしいなと感謝したくなる日々が続いております。

2013年3月11日月曜日

「ヴィリアの歌」の思い出



 風のあった土曜日9日には品川のホテルでのコンサートに出掛けました。
オペレッタの「メリーウィドゥ」でした。おなじみの演目ですが何回聴いても良いのでまた聴きにいった次第です。
 しかし演奏中に、「ヴィリアの歌」をハンナが歌い始めたとたんに私の中でパブロフの犬の条件反射のようにウルウルと自然に涙が湧いて来るのでした。
 場面はウイーンの夜会の華やかな所ですが、全く関係なく私の脳裏には台所でお勝手をしながらこの歌を口ずさむ母の後ろ姿が思い起こされてしまうのです。
 それは大抵ご機嫌の良い気分が上々の時だったようで少女だった私には、なにやら心地よいメロディに思われてその曲が私の中にすり込まれていったのでした。 多分母は30代だったと思います。後年になってあの時の歌がオペレッタのメリーウィドゥの中でハンナが歌う「ヴィリアの歌」だったのだと知るのですが、この歌を聴く度にご機嫌な母の弾む様な声が胸に響き、つましい暮らしだった台所の光景がいつも瞼に甦り母の背中が浮かぶのです。
 どうしてあの歌を知っていたのかは分かりませんが、多分昔は宝塚や浅草で盛んにオペレッタが日本人向きに上演されていて、皆が口ずさんでいたと父に聞いた事があるのでそんな風にして皆覚えてしまったのでしょうか。
 良き昭和の時代を彷彿と思い起こさせるのです。生前に聞いておけば良かったと思います。 ですから「ヴィリアの歌」を聴くと、いきなりいつも母の背中が浮かび当時の自分の家庭がどんなに小さな幸せに満ちて両親の愛情に包まれていたのかと一服の絵のように甦るのです。音楽の持つ力は偉大だと思います。
 花粉症で鼻がぐずぐずしていたのに加えて不覚にも涙もその歌のせいで滲み出て何だか鼻をかんでばかりのオペレッタ鑑賞の日となりました。
 この日はローズ色の塩瀬に白く描かれた薔薇の帯を地味な江戸小紋に締めて出掛けました。帯の色が少し派手になったかなと思いつつこれが最後と締めました。
 20代から締めていたのですから帯は本当に組み合わせ次第で長く締められるものです。次の世代に締めてもらうことにします。
 昨日の風が少し収まり花の蕾も固いながら少しづつ見えて来ました。 今年の春はとても遅いです。ジンチョウゲもやっと香り初めて来たくらいです。
 12年前の2月の半ばに逝った母の忌にはすでにジンチョウゲは香り初めていて悲しかった夜だったことを思い出します。 あの世でも父に「ヴイリアの歌」を聴かせているかしらと、ふと思ったりします。

2013年2月26日火曜日

吊し雛


 帯の会が終わり春の会が始まるまで工房内の展示スペースに吊し雛を飾ることにしました。まだ寒い日が続いていますが春が待たれます。

まだまだ雪国では積雪がやまずに、悲鳴を上げている声が報道されていますが私には5メートル以上の積雪ってどんなものなのか想像しても分かりません。
 日々の買い物はどうするのか一寸郵便局に行こうにも行けない現実はどんなに大変かと思うと雪に閉ざされた生活をどうやって切り抜けるのか考えるだに大変と思うばかりです。一日も早く春が訪れて欲しいと思います。
  気が付けばもう2月も終わりかけていて桃の節句までそう間がありません。 前から飾りたかった吊し雛を飾ってみようと工房の展示スペースに下げてみました。 これらは私の妹が手慰みのようにこつこつと作り続けていた物です。
 誰に見せるでもなく元々手先が器用で工作が小さいときから好きだったので家の中で自分の楽しみに作っていたのですが女の子も周りにいなくて、孫まで男の子ですからなかなか飾る機会もなく、たまに妹が作っている過程を私が見に行く程度でしたから、たまる一方でこれは誰かにも見てもらったらどうかと私の工房の展示室が丁度良いスペースなので思い切って全部飾ってみました。

 誰かに習ったわけではなく全くの独創的な、決して丁寧な出来ではないのですが、どんな端布をどのように使ってあるかを見るとなんだか可笑しくもあり、素人とはいえ充分にクリエイトされたユニークな吊し雛は私が言うのも変ですが結構見応えがあります。なかなか逞しい感じの吊し雛です。

 工房で染めた生地の端布や、古い生地が使われていて布はどんなに小さくなっても役に立つこともあり、このような形で生まれ変わればどんな残り布も大事にしたくなりますが生地を縫う、針を持つことは女性の本能といったら大げさでしょうか。
 10年近く暇さえあれば作り続けて来た妹の心情はよく分かるので沢山の雛を見上げれば私も嬉しく思います。
 2月も終わりですから梅の着物と帯もこれで着るのが今年は最後なので吊し雛の前で写真を撮りました。2月生まれの私に取っては良い記念となりました。月末にはまた歳を重ねます。

2013年2月19日火曜日

椿のトンネル


 2月も残り10日を切ったのですがまだまだ春の気配が薄く春は足踏みしているようです。 公園の山茶花は盛りも過ぎて散り始めてはいますが椿はどうでしょうか。
 新聞で大島の観光や椿祭りの記事を読んだら何十年か前に旅した大島を思い出しました。 あれは高校を卒業してすぐに親友と二人で出かけた小さな旅でした。
 10代の終わりかけの年齢とはいえ大人抜きでの旅は初めてのことで、今とは時代が違うので父親の許しをもらうのにおそるおそるでしたが、父が言うには船の旅は3等船室ではだめでちゃんと二人部屋を取るようにとの条件付きでした。 雑魚寝はいけないと言う事だったのでしょう。
 こうして友達との二人旅は始まり、これ以後は堰を切ったように旅に出るようになりました。 インターネットもない時代ですから全ては時刻表を頼りにスケジュールを立てて旅の楽しさを知ったのでした。あの時刻表を見て組み立てる旅のわくわく感は今でも覚えています。
 全部自分で宿も交通手段も決めるのですからネットでさっと簡単に調べるわけではなかったので苦労して立てた旅のスケジュールは、まだ見ぬ旅先への期待感が果てしなく広がったものです。 今でも時刻表を見るのは好きです。
 話が戻りますが大島への旅はまだ春浅いころでしたのに島は椿が多く咲いていて東京より暖かくて椿のトンネルや植物公園にでかけたり灯台に行ったり、海を眺めての楽しい時間でした。
 何よりも高校を卒業した開放感があり、これから進む道に希望があふれていました。 青春の思い出は椿を見る度に蘇ります。何の変哲もない紅い藪椿と厚い葉の深緑、花が終わると実る固い茶色の実は平凡ですが、私にとっては大人への道しるべとなる最初の木だったように思っています。私らしい木と勝手に思っています。
 我が家の塀の際にも椿が毎年咲きます。まだ蕾も見えていませんが古い木で、もう何回も場所を移し替えては移植して、移植させる度に椿は植え替えるとだめになるんだという植木屋さんの言葉に反して毎回植え替えた年は心配するのですが、花をつけなかった年はなくいつも元気です。ずっと私に寄り添ってくれる木なのだとこの椿には感謝しています。
 椿に寿命はあるのでしょうか、私より年は取っているはずなのです。 大島の広告を見ていたらまたあの椿のトンネルを見に行きたくなりました。 きっとまだあるのだと思います。黒潮、そして椿のトンネル、又トンネルをくぐってみたら若返るような気がしますが少し虫の良い話でしょうか、実現したら3度目の大島行きです。

2013年2月2日土曜日

黒い椿


 とうとう2月に入ってしまいました。今日辺りは少し暖かく梅の頼りもちらほらと聞こえて来ます。 梅も香りが良いですが昨日から水屋の棚に飾った水仙が良く香っています。水仙は独特の気高い感じの匂いです。

 千葉の鋸南市では水仙が多く海沿いに植えられていて今は愛でるのにとても良い頃だと放映されていました。抱えきれないほどの水仙を胸一杯に摘んでみたいなという衝動に駆られました。 花々の香りは春の到来を伝えます。梅、水仙がまず先頭でしょうか。可愛いパンジーやチューリップにも目が行くのですが洋花はもう少し後にしましょう。 まず日本の花、木に咲く花、山茶花、椿、ぼけの花、梅からと楽しんで行きましょうか。 早春の空に大きな柑橘類の木である柚や橙などが成っているのも大好きな景色です。

 近くのマンションの庭には絞り模様の椿があります。近々取り壊されるそうで、あの木はどうなるのだろうと今から心配です。紅白の絞りの椿はひとつづつ皆違う染め分けで見ていても楽しいです。切り倒されてはもったいないと思っています。
  椿はたったの一輪でも絵になり風情が出ますし、どんな花瓶でも良く合う不思議な存在感を持った花です。ワビスケのようにお茶花にも使われますが昨年は白いのではなく暗い濃い赤のクロワビスケの枝を頂きました。
  もう植える場所もありませんが鉢植えでも良いので今年は植木市で探してみようと思います。 これから花を追いかける季節になりましたので楽しみです。 玄関脇に可愛い名前のカンザシソウをいくつも植え込みました。 蕾は紅く咲くと白い花です。もうさすがに凍ることはないでしょう。 梅園の見頃や梅祭りはいつか探しております。


過日、1月28日には板東三津五郎さんの新年会に出掛けました。その折に仕立て下ろしの訪問着を着ました。この着物はかなり大昔のものできっと戦前に染められた着物と思われます。
 訳あって私の手元に長いことありましたが思い切っての陽の目を見せようと自分の着物寸法に仕立て直しておきました。
 それからまた10年ほどが経ってしまったのですが、ふと思い出して今年の新年会に着て見ました。とても不思議な柄で上前から脇ににかけて椿の頭が三つさっとした筆致で描かれていてそれが黒、紫、錆朱とあり得ない様な椿の色なのです。
 モダンというか粋というか現代にはない色合いです。 地色はとても渋い白茶色で私はあまり着た事がない地色です。 帯が難しいなと思いましたが手持ちの黒地塩瀬の雲龍柳を描いた帯を合わせて見ましたら案外合いました。
 黒い椿は丁度上前寄りの脇に描かれています。これは黒ワビスケなのかしらとふと思いました。昔の職人さんの制作意図を聞いて見たかったとあれこれ想像します。
 粋でモダン、お江戸の匂いもする着物です。歌舞伎関係の集いには相応しいかと着てみました。

2013年1月15日火曜日

市川宗家のにらみ、そして雪の成人式


 新年の一月も丁度半月を終えようとしています。今年は長めの休暇だったので日頃気にかけていた片付けなど少しまとまったことが出来るかと思っていましたが、あれよあれよと過ぎてしまいました。お正月らしく会合や集まり、お芝居など立て続けに着物で出掛ける日が続きました。
中でも今年の初芝居は浅草での新春歌舞伎で久しぶりの浅草での海老蔵さんを楽しみました。恒例の口上ではお決まりの市川宗家のにらみをとても良いお席で受けて参りました。
 このにらみは邪気を払うと言われて無病息災にも繋がるそうで有り難いと思いましたがあろうことかこの夜から風邪を引き込み大苦しみをしました。今より1週間も前のことだったのですが咳が止まらず、あんなに穴のあくほどにらみを観たのにと残念な思いとなりました。勿論自分に原因があるので海老様のせいではなく、仕方ないことですが何時も毎年1月に具合悪くなるのはなぜでしょうか。暮れまでの忙しさが押せ押せに来てほっとして迎える1月に疲れが出るせいかもしれません。でもインフルエンザでは無いそうでほっとしました。

 そんな風邪が治りかけたこの連休には、昨年からのお誘いもあって知多半島の日間賀島までフグを食べる旅をしました。大昔に名古屋に2年ほど住んだことがありましたが日間賀島のことは全く知りませんでした。お誘いを受けたOさんのてきぱきとした引率振りで総勢8人の旅は一度観たかった名古屋市科学館の大型プラネタリウム行きを皮切りにフグの新年会を日間賀島でするという企画は素晴らしく何とか爆弾低気圧をすれすれで切り抜けて島を水上タクシーで脱出、風雨のなかをまるで007のワンシーンの様に波を蹴立てて無事に名古屋へ戻り何とかタイミング良く東京まで戻りました。むしろ東京の方が吹雪の様になっていてタクシー乗り場が長蛇の列となっており自宅の近くの方が大変でした。

 そんな中、駅では何人もの成人式の振袖姿が見られて、ああ今日は成人式だったと思いました。着物に携わる私がそんなことを言うのはおかしいのですが成人式は15日にと復活を切に願う私としては、未だに第2月曜の成人式というのに馴染めずにいるのでことさらそう思うのでしょう。勿論、毎年成人式のための振袖は制作しているのに政府が決めたお節介の祭日設定には呉服業界も美容業界も困り、また前を知る多くの大人が15日復活説を口々に言います。連休を無理矢理作るのはさんざん休んだお正月におまけのように大サービスする必要はないのにと毎年私は思っています。 反対理由はまだいくらでもあるのですが長くなるので割愛しておきます。
 とにかく雪にあおられた振袖姿のお気の毒な事といったらありません。みんながみんなご自分のお着物ではないのかもしれません。そこで私の持論の振袖コート説もあるのですがこれはまたの機会にお話します。そんなわけでこの半月はあわただしく過ぎて行きました。15日からは腰を据えて仕事に邁進です。…とはいうものの20日はまた演舞場行きです。私のお正月はいつまで続くやら、、、、。
  風邪も治った事だし、やはり今年も遊びに仕事にと頑張って行きます。言い忘れそうになりましたが新成人の方々おめでとうございました。

2013年1月1日火曜日

巳年は蛇の様に


 明けましておめでとうございます。ついに平成25年になりました。

昨年は改築のあおりで約半年しか仕事が出来ずにいましたが、リニューアルオープン後は怒濤の様にと言っては大げさですが、それに近いほどの勢いで仕事をこなしましたから31日は気の抜けたようになってしまいました。
  今朝からは平成25年になったのだなと言う実感が湧き始めて来ました。 テレビは戦後からの昭和の歴史を繰り返し放映することが多いですが、まさに私が生きて来た時代がそのまま投影されているようで特に昭和の映像を見るとずいぶんと遠いことのように言われていますが、私に取っては瞬きをしていた時間ほどにしか思えません。
  さて今年は巳年ですが蛇は縁起の良い生き物とされていますので蛇にあやかりその動きのようにくねくねと地べたを這うように動き、ときに鎌首を持ち上げて獲物を狙うがごとくに蛇行しながらも決して油断せずに時に敏速に動きたいと思っています。
  何度も脱皮出来る蛇の様に私も古いしがらみを時々は脱ぎ捨て新しい体となり蛇の様にあまり物が見えなくても温度で色々と感知するようにアンテナを張りながら蛇の歩みで突き進む年にしたいと思っております。
 最もアンテナなんていう言葉はすでに古くて今は光なのでしょうか。 IPS細胞もネズミでの実験を見る限りでは素晴らしい事が期待出来そうですから、もう少しの間医学の進歩も見届けていたいものです。

  昨年暮れに訪れたお客様の所の可愛らしいお嬢さんが大昔に私がそのご親戚に作った7歳のお祝い着を秋に着て撮られた写真を拝見させてもらいました。
  そしてそのお宅のお祖母様に成人式にまた彼女の為に創って欲しいと頼まれました。 「はい、分かりました」とは答えたもののあと、13年後と思うとかなり強い気持ちで仕事に取り組まないと大変だと思いました。
 似たような事を頼まれているお客様が数人は現在いらっしゃるので現在小学生や中学生の方々の成人式の為の振袖制作のためには、よほど心も体も健康で今後も暮らさなくてはの思いを強く感じました。
 明日の事は分からない時代ではあるのでこれは自分自身が強い信念を持たないと乗り越えては行けないと新年をを迎えた今日はまた決意を新たにするばかりです。
 やはり蛇にあやかり何度も脱皮して進んでで行くしかありません。しかし蛇はその命が尽きるまで何回脱皮して行くのでしょうか。その生態はよく分かりませんが知らない方が今の私には良いかも知れません。 着物を通じて少女たちの成長を一緒に味わえる仕事に携われる幸せを天職と素直に感じる年齢になりました。
 大きな天災が起きませんように私の知る全ての人が穏やかに暮らせる年でありますように心から念じて止みません。皆様 本年もあらた工房をどうぞよろしくお願いします。