2013年9月30日月曜日

小布から富士山続々と誕生


  9月28日と29日の両日は穏やかな秋晴れの中、工房主催(蜻蛉俱楽部)のワークショップ「富士山を作ろう」に多くの方が参加して下さいました。
 今年の春にの吊し雛展のお誘いに思いもかけずに多くの方が見にいらして下さったのにヒントを得て、今年、世界文化遺産となった富士山をテーマに工房で生まれる絹の端布を使い富士山の吊し雛をみんなで作ろう!との呼びかけにかくも沢山の方々がいらしてくださったことは嬉しかったです。 31名もの方々が参加して下さいました。
 エコの観点から何よりも小さな端布が生き、形になったことがうれしい事でした。どんな小さな布も絹は蚕が一生懸命作ってくれた糸ですから粗末には出来ません。

何回も染めて色が重なった生地の端を富士の姿に見立ててそれぞれの富士山が出来上がりました。
「赤富士」「夜の富士」「早春の富士」「紅葉の富士」「朝焼けの富士」「夜明けの富士」と、それは色とりどりに生まれて来ました。京都から取り寄せたお香や富良野から送ってもらったラベンダーなどを富士山の中に入れて、赤や白の糸で繋ぎ下げれば立派な吊し雛で、また匂い袋にしたり用途も様々です。
 下は小学2年生から上は70代の方々まで幅広く思い思いに創作していました。小学生の参加者には番外で貝を綺麗な布でくるんで作るのをお教えしたところ、
早速学校に持って行く手提げに付けたとの報告があり、写真が送られて、尚うれしい事でした。

 どんな小さな絹も大切に使われたのは、ものが溢れている時代に、かえって良かったと思います。

 次はいつ?というお声も聞かれましたので来春2月にはお雛様の前にまた趣向を変えて吊し雛の会が開けたらと早くも色々なアイデアが浮かんで参ります。
 工房で初めてのワークショップでしたが大盛況に終わり心地良い疲れの中、ほっとして9月が終えました。
 私も二日間大いに遊ばせてもらいました。今回、沢山の吊し」雛を作り、講師にもなって奮闘した妹の大里律子にも感謝です。思えば妹と共同で仕事をしたのも初めての事でした。

 日毎に秋が深まるのは朝の風の冷たさで感じます。夕食は新米と三陸から氷詰めで贈って頂いた秋刀魚を思う存分食しました。
 これで私の心も体も秋に入ったと実感致しました。秋刀魚と富士山に元気をもらい明日からはまた秋の新作の為に励もうと勇んでおります。

2013年9月24日火曜日

昭和時代の東京オリンピック



 9月上旬には7年後の東京オリンピックが決まり国中が湧きました。私も決定が気になってプレゼンテーションを真剣に聴いており、やはり決定したとなると素直にうれしく思いました。

 そして思ったのは人生の中で2度もオリンピックを東京で見られることはなんと素晴らしい事なのだろうと、青春時代にそして老いてからの老年時代にも経験できるのだと実感し、元気でまだ頑張らなくてはと思ったのでした。
 あの決定を聞いた誰でもが各々の7年後はどうなっているのだろうと思ったのではないでしょうか。若い人は希望を抱き老いた人はまだもう少し頑張るぞと思う気持になったのではないでしょうか。
 7年経つ間に何があるか分かりませんが7年という歳月は短くもなく、また長くもなく丁度良い年月と言えます。 先の昭和39年の東京オリンピックの頃はどうであったかとつらつらと思い出します。

 今みたいにロビー活動なんて言葉もなく、どんな経緯で決まったのかなど知るよしも当時の私にはありませんでした。突然のオリンピック景気に東京中がひっくり返るような騒ぎだったようでした。
 それまで見た事もない多くの外国人が東京に溢れると言うことで今思い返しても可笑しいのですが、お巡りさんが私の家に来てこの町に外国人に道を教えてあげられるような英語が分かる人がいますかと1軒1軒回って聞くのでした。

 当時、私は既に仕事をしていたのですが、道案内くらいは出来ると思いますとまじめに答えて戸籍係のお巡りさんも真剣に調べていたのが印象に残っています。
 戦後はじめて多くの外国人を迎えることに人々は緊張していたのでしょうか、今思うと笑い話のようなのですが、新宿区や渋谷区に割と近いせいか街が急激に変わっていくのが手に取るようでした。

 代々木の米軍の将校ハウスはオリンピック村となり、あちこちにある小さな川は埋め立てられて道路も広くなったり高速道路も出来て急ピッチで東京中は建設ラッシュだったし今よりももっと大変な騒ぎだった気がします。あの時代に比べれば日本もスマートになったものです。
 勿論インフラばかりでなく、デパートやお店もオリンピック景気に乗り遅れまいと様々に動いたのでした。
  その頃私は某デパートの某呉服部の仕事を盛んにしていましたのでオリンピックが始まる頃にはオリンピックに因んだ着物の柄を作るように頼まれて当時は今と違いデパートそのものが流行をリードするような時代だったので、オリンピックの柄たとえば聖火台や聖火を運ぶトーチの柄を小紋に散らして描いたりと真剣に染めていました。

似た柄を染め帯にも染めた記憶があります。半世紀も前の当時の図案が今でも探せばどこかにしまってありますが思い出す度になんとなくあの時の真剣さが微笑ましく思えて日本の良い時代だったのだとも思います。
 今だったらあんな陳腐な柄は作らないでしょうが、あの頃は全力上げて全国民がオリンピックに向かって取り組んでいました。冷めた雰囲気は感じられませんでした。高速道路、新幹線などオリンピックのおかげで出来たような物ですから活気もすさまじかったのです。
 そんな世間の空気や流れの中で私は生きて行くこと、オリンピックの前年の父亡き後の工房を守るのに必死でもありました。
 あの晴天の10月10日に開会式がありまだ珍しかったカラーテレビを見た母の友人がアンツーカーがとてもきれいだと、また行進の各国のユニフォームが素晴らしいと興奮して喋るのを聞いていながらも仕事に忙しくしていた自分には遠い世界の出来事を聞いていたような気がしていたことなどを記憶しています。
 アンツーカーなんて言葉は始めて聞く言葉でしたしカラーテレビもまだなかったのですがバレーボールの東洋の魔女の試合には私も興奮しました。こうしてみると半世紀なんてあっという間です。

 次のオリンピックは誰と見るのでしょうか。 明日の事は誰にも分かりませんが無事に7年後のオリンピックが見られることだけを今は祈りたい気持です。
 先の東京オリンピックを経験したものとして断片的にでもあの時代の空気感を伝えるのもまた自分の役目かなと勝手に思っているこの頃です。

2013年9月3日火曜日

9月の歌舞伎座で





「創立記念祭」が終わった明くる2日は、思いもかけず歌舞伎座にお誘いを頂きまして昼の部を観に行きました。まだまだ夏日の気温が続く中、日中は暑さを忘れて歌舞伎座の中で過ごしました。


 今年のこけら落としは4,5,6月と何度も歌舞伎座へ足を運び堪能しましたのですこしの間歌舞伎見物もお休み状態でした。そして三津五郎さんのご病気などのニュースもありがっかりしていましたが、やはり2ヶ月ぶりの歌舞伎座はいいものです。
 このところ何度も以前に観た演目を繰り返し観る事が多かったのですが、初めて観た演目「新薄雪物語」はとても面白く興味深く楽しい舞台でした。
 中村勘九郎さんと七之助さんは若さの中にもどんどん上手くなって行くようです。「吉原雀」の二人の踊りは華やかでどうかすると二人とも勘三郎さんの面差しが見られ、又勘九郎さんの声も勘三郎さんに似てきたと思われました。
 
 三津五郎さんのご病気で少し心配していた歌舞伎界も、若手は着実に育っているのだと海老蔵さんや松緑さん 染五郎さんの活躍も含めて実感した日でした。
 客席も暑い中でもずいぶんとお若い方々が着物姿でいらしているのを見て嬉しい限りです。お誘い下さいましたKさんも絽塩瀬の黒の帯で夏の花を乗せて走る帆かけ船の模様がきりっとしてよくお似合いでした。かなり昔に染めた帯を歌舞伎座で眺められるのは感慨深くもありました。



 暑いとは言え日が段々と短くなっていく気がします。これからはますます着物が着易い日々となるでしょう。9月の装いに関する質問やお問い合わせがとても多く寄せられています。袷に入る前の9月は組み合わせも様々です。
 9月に着られる着物や帯を悩まずに楽しんで見ましょう。初秋は秋の入り口です。爽やかに装いましょうか。