2011年10月31日月曜日

イチイの実


 山は秋晴れでポカポカと暖かい。落葉松の葉も落ち始めてアトリエのベランダはすっかり落ち葉で埋め尽くされています。
いつも通る牧場の下に八ヶ岳を背にして墓地が開けています。見通しの良い場所で青空の下、雲ひとつない空に八ヶ岳の連峰がくっきりと見えて空気の澄んだ秋の山は絵に描かれたように綺麗です。
 この墓地の一隅にいつも目を引く墓所があります。山の中にあるには立派な墓所で墓石の建っているかろうどの縁は低いながらも面積が大きく中央には立派な墓石が建っています。ここまでは普通なのですが墓石の左側にやや斜めに小さいけれど横長の墓石が中央の墓石を見るようにあるのです。
そしてその墓石には二匹の犬のレリーフが彫られています。犬のレリーフから思うに柴犬か甲斐犬か、日本犬のようです。きっとお墓を建てた方の愛犬たちの為のお墓なのでしょう。とても立派で感心します。裏を見ると犬の名も彫ってありそのうちのひとつの方は朱になっていますからまだ生存している犬の分までも用意されているのです。

 人間のお墓だってままならない世の中ですのに凄い方がいるものだといつも私は思って眺めてしまいます。そして飼い主と犬たちとの愛情のつながりに想いを巡らしてしまいます。
私も何匹もの犬を旅立たせて、そのうちの何匹かは八ヶ岳のこの地に眠っていますがきっとここに墓所を造られた方もこの地が好きで山々の見えるここで可愛がっていた愛犬たちと永遠に
眠りたいと思われてのことだろうと勝手に想像してしまうのです。
 それと私がもう一つ気に入っているのはこの墓地の周りはイチイの垣根が巡らしてあることです。いつもこの季節になるとイチイは赤い実をいくつも下げるようにして実らせます。
緑濃いイチイの木に赤い実は鈴のようでつまんで口にれると甘くてきっと鳥たちは好物だろうと思いますが種には毒があると聞いたことがあるからどうなのでしょう。


イチイの木はなかなか大きくならないそうで木が堅くて家具や表札にも造られています。またオンコやアララギとも呼ばれていますし漢字では一位と書かれて最も高い位の木とも言われています。
 アララギはアララギ派と呼ばれる短歌の派にもよく言われているので少しでも短歌を勉強している私にとっても親しみが湧く木の名前でもあります。
夕日が当たる山の端にアララギの木と実が風にかすかに揺れて墓地を囲む垣根になっているのは好きな景色のひとつです。でもここでは今まで人っ子一人会ったことがなくていつも一人で眺めているので余計に想像が膨らみます。

 そろそろクリスマス近くになると赤と緑の組み合わせが気になります。イチイの針葉樹の濃い緑色、下がった実の赤い色とこれに雪でも載ればもうそれだけでクリスマスの気分にさせてくれます。
明日からは11月です。町中でもクリスマスの飾り付けが始まるというニュースを知りました。都会でも晩秋の銀杏並木の楽しめる11月がこれからやってきます。

2011年10月24日月曜日

紅葉を踏んで


 徐々に赤味を増してきた紅葉を見ながらの散歩は楽しいものです。
日が強く当たるところは真っ赤に燃えるような色で、日陰はまだ緑が多く、一枝の中でもぱっきりと赤と緑に見事に分かれている枝もあり見ればみるほど面白く思えます。
 赤と緑は対抗色なのに美しくて自然界の色分けは計算されているわけではないのに少しも不自然ではないのが不思議です。
そして地には敷き詰められたように落ち葉の絨毯でとりわけ紅葉の木の周りは複雑な紅葉が重なり合って見応えがあります。
 雨が降った後に陽が照り始めてから紅葉の木を逆光で眺めるとまた綺麗です。
毎年の事ながら「秋の夕日に照る山紅葉」と思わず歌いたくなります。真っ赤な紅葉が散り始める頃、山の落葉松は真っ黄色になり、そして全ての葉を落とします。
 山法師が赤い実を付けてその葉も紅葉させています。山紫陽花の葉も紫から赤に掛けて染まり花もドライになったまま赤く染まったまま秋を迎えます。猫じゃらし、ススキの葉も皆紫がかった赤になって行くのです。
 自然の移ろいに身を任せて草や木は生きています。紅葉しない針葉樹も赤い木々の引き立て役として存在しています。
地面のすぐそばまで枝や葉を茂らせている深緑の樅は山の冬を彩る男性的な力強い木々です。生命力に溢れている木でこれからの厳しい冬の寒さに耐えてその幹や枝に白い雪を載せて針葉樹の緑の森を見せてくれます。

 東京に戻ったら、やや蒸し暑く感じましたが今年は全てが2週間ぐらい遅れているような気がします。
 今は着物を着るには丁度良い季節ですから大いに着てもらいたいと思います。
工房では秋から冬にかけてのコート類に力を入れています。新作は勿論のこと、「今昔の会」で相談を受けたコート類については着物や羽織からのリニューアルにと今年もずいぶんと道中着や道行に作り替えました。これからはコートなしでは歩けませんから様々なところで出番が増えて活躍してくれることでしょう。
 私がアドバイスをしてプロデュースをいくらしても、これらを仕立ててくれる良き協力者、つまり仕立屋さんがいなければ古い着物の再生は出来ません。どんなに仕立屋さんがいても心底着物が好きな方でなくては苦労の多い仕事なので出来ないのです。
今、最も私が危惧している事はそのことです。着物を知り尽くして大好きで仕立てる技術やアイデアを発揮出来てお客様の喜びを共に喜んでくれるような職人さんがほとんどいないと言うことです。
 私が仕事に携わっている間はどうか良き協力者が助けてくれて欲しいこと、高齢化して行く職人さんですがせめて私が仕事をしている間はがんばっていてくれたらなと勝手な願いですが、最近ひしひしと感じることです。着物は一人の力だけでは形になりません。着る側があれば支えて行く人たちも多く必要とします。伝統を守る事、継承させることの難しさは複雑で一言では言えない事ばかりなのです。

 だんだんと秋深くなって行く中で着物姿で歩く人を見るにつけ考えさせられる事なのです。
いつもどうしたらよいのかと、私の頭から離れません。

2011年10月17日月曜日

浜風強し


 15日は横浜ゲーテ座でのコンサートでした。風も強かったのにお誘いした何人かは着物姿でいらして下さって、とても嬉しく思いました。いつもなら着物の私も改装中のために箪笥が簡単に開けられない状態なのでこの秋は着物が着られず残念です。来年こそは着物を楽しもうと思っています。着物姿を見せて下さった皆様ありがとうございました。
ンサート終了後は元町の馴染みのフレンチレストランで関係者一同で楽しく会食しました。
 いつもながらの美味しいお食事でその日は耳も満足、お腹も満足の楽しい夜が過ごせました。食事は大変に時間を掛けたサービスなので終わる頃には全く動きたくない気分になるので、こんな時は横浜で泊まり、明くる日には中華街でぶらぶらして帰宅するのが恒例となっています。 

工事中の家に帰っても仕方ないので、16日には一度行きたかった八景島のシーパラダイスに家族で行って見ました。
久しぶりに海をみて嬉しくなりました。いつも山ばかりなので子供の時から好きだった海は心が広がって行くようであります。この日は風が強く吹いていて飛ばされそうでしたが、波が寄せる様子はあの悪夢のような津波からはほど遠く気持ち良く感じられたのです。 
またいつか南の島にのんびりと出掛けたくなりました。

 子供のようにセイウチの背中に触れてみたりイルカたちのショーも見て海の生き物にも多く出会うと動物も魚も人も皆一緒と思えます。
マンボーが悠々と泳ぐ様子は特に癒されます。
海も山も自然はやはり良いなーと海からの強い風に吹かれながら横浜での小旅行を楽しんだのでした。


2011年10月12日水曜日

始めに蔦が


 先週からの連休では八ヶ岳から蓼科までドライブの機会があり、晴天が続く中を山々の紅葉の様子をじっくりと観察することが出来ました。
 今月と来月にまたがり徐々に楽しめそうですが山々は陽の当たり方によっても違います。
良く日が当たるところは少し黄味を帯びて来ていますがその中にあってすでに赤く色付いた木々も所々アクセントのように見られます。

大きな松やダケカンバの太い幹に蔦が這い上がるように絡まって昇っています。その蔦はすでに真っ赤に紅葉していてどこまでも高く這い上がる蔦は山の中でも目立ちます。思い切り陽を浴びるせいなのか、最も早く色付いています。
 どうやら蔦の紅葉が始まると一気に紅葉が進む樣です。そのうち黄色から赤への段だら模様に山は覆われて落葉松の林が真っ黄色になり金の雨を降らし終わると初冬への景色になって行くことでしょう。

 蓼科の山の中に静かに建っているホールで9日には秋のコンサートに行きました。
木造のホールは大きなガラス窓に唐松林の借景が広がり、ホール内からも秋らしい日差しも感じられます。
古典からミュージカルの曲まで数々の歌が歌われて楽しい音楽会の午後となりました。
夜には場所をゴルフ場に移してパーティとなり参加者全員和気あいあいと話も弾んで、夜はチロル風の素敵なホテルに宿を取り秋の夜長を過ごしました。主催者の陰のご苦労に頭が下がります。

 早朝には露天に浸かり山の景色を眺めて、昼には蓼科で親しい友人たちと昼食を取り、まだ陽のある内に八ヶ岳の山荘に戻ったのでした。
ドライブの往復の道中、広域農道の左右には蕎麦の畑がどこまでも広がりパノラマのように南アルプスや八ヶ岳連峰が見えます。蕎麦畑のなかに時々赤い花が見えるのはあれは赤蕎麦なのでしょうか。ほとんどが白い花畑なので目立ちます。

 八ヶ岳アトリエでの朝夕は肌寒いのでストーブが必要です。うかうかしているとあっという間に暗くなるので夕方の犬の散歩は早めなくてはなりません。
その分夜が長く思えるので本当は読書をしたり音楽を聴いたりしたいのですが友人たちのおしゃべりに花が咲きすぎてなかなか静かには過ごせないのが現状ですが、それもまた楽しくて、少々はしゃぎ過ぎて疲れて私はすぐに寝入ってしまいます。

 八ヶ岳アトリエの庭から見える落葉松の林の中には見上げるような高さに蔦が落葉松の幹に絡まっているのが何本か見えてその綺麗さに思わず見とれてしまいます。朝陽を浴びても夕日に照らされても美しくて蔦の赤さが映える着物を創りたいと思うのです。
赤い蔦に映える地の色はどんな色が良いのかとキッチンから眺めつつ料理をしながらも考えます。
 赤に映える黒地、高い秋の空の色、いや、しっとりと古代茶の地色かと想いを巡らします。若い方より人生経験を積んだ年齢の方々にあの赤い蔦をどのように深く表せるかと重厚なる秋の赤を考えてしまいます。
蔦は楓やもみじほど葉が薄くないので、どっしりと重厚で艶のある紅葉となるところが魅力に思えます。
毎年、秋の始めの悩ましい紅葉は私に取っては蔦なのです。そして好きな秋のモチーフでもあるのです。日ごとに深まり行く秋、お月様が煌々とススキの原を照らしておりました。


2011年10月3日月曜日

10月の女神の到来は、、、


 ついに10月となってしまいました。毎年思うのですが10月の扉はキンモクセイの香と共に秋の女神が扉を開けて降り立つような気がします。女神はキンモクセイの色の黄色いゴールドがかった薄いベールを秋の風になびかせて来るのです。
豊穣の実りを籠いっぱいに容れて大勢の侍女を従えてやって来るのです。
これはいつも私が抱く10月のイメージなのですが少々乙女チックといわれようとも毎年少女時代から想うイメージなので今更変えようも出来ないのです。
 小さいときからギリシャやローマ神話に憧れて西洋の絵画をよく見ていたせいかもしれません。こと神話と言えば西洋のみならず日本神話も大好きで神話を読みながら眠りにつくと想像が高まりとてつもない夢を見られます。これも現実の煩雑さか逃れたいと思う故なのでしょうか。想像の世界に遊ぶ楽しさは小さいときからのんびり屋だったマイペースの私の癖でもあるのです。

 今は東京と山梨の八ヶ岳のアトリエを行ったり来たりの暮らしなので,週の前半が東京、後半が八ヶ岳での生活と交互に過ぎて行きます。
山では少しづつ木の実が色付いて来ました。赤、橙色、青、紫。黄色。茶色と様々です。ナナカマドの赤い実、山帰来やサルトリイバラの橙色の実、などなどが目につきます。
中でも交通標識のように目立つマムシソウの真っ赤な実は背もそう高くなくてまるで工事中ですよと言わんばかりにユーモラスにひょっこり立っていると見る度に微笑んでしまいます。私はここですと意思表示をして目立とうとしているのは鳥たちにアピールして啄んでもらうためなのでしょう。必死に立っているような気がしてなりません。その名前とは対照的で秋のマムシソウは私にとっても山の秋が来たんですよという道しるべにもなっているのです。

 友人が庭に植えてくれた山椒の木はどんどんと大きく育って秋には小さな赤い実が沢山付いていました。山椒の実の佃煮が好きな私は「これなら佃煮にすれば良かった」と言うと友人は「青い内でなくては佃煮になりません」と教えてくれました。赤くなる頃には固くて、来年はタイミングが合えば挑戦しようかと思いました。山椒の実と昆布の入ったおむすびは美味しいのでこれを目標にと思いますが、誰かさんが買った方が早いと言うので,実現出来るでしょうか。 

まだ山では紅葉が始まりません。わずかにニシキギが赤くなり草紅葉がちらほらと足下に見える程度です。ススキが一面に白い穂を開き秋の風に揺れています。今年は度々山に行くのであの美しい落葉松の紅葉が降り注ぐ日に出会えることでしょう。あれはまさに金の雨と言いたい景色なのです。

 この頃は犬たちの散歩の途中に3回に1回くらいは森の珈琲屋さんに立ち寄り一休みします。先日は「焼きたてのふわふわシュークリーム出来ました」と入り口の黒板に書かれていました。ほとんどお客が来ないところなのに頑張っているなーと思い珈琲と共に頼んでみました。 
 店主は私がベランダに腰掛けると「お寒くないでしょうか」と座布団を持ってきてから「しばらくお待ち下さい」とやおら頭を下げて引っ込みしばらくして現れるのですが、例によって私の好みからすると、やや温度が気持ち低い珈琲を煎れて来るのでいつも「何でだろうか」とこれが適温なのかと思い店主の丁寧な応対に吞まれてしまうのです。 
小さなシュークリームが運ばれて来ました。折角焼いたのに食べる人が少ないのはシュークリームが可哀相と思う私ですが、てっぺんの帽子のようなところは小さくふたつに折って店主のいないときにそっと犬たちに上げました。
 だって犬は珈琲が飲めないのだからと勝手な理由を付けて、私と犬たちの散歩の一休みはなぜか現実離れした時間の中で、目の前の八ヶ岳の山々をぼーっと眺めながら過ぎて行きます。不思議と、この時には時間が存在しないようなおかしな気分になりますが急に秋の風にほおをなぜられて現実に戻り、それからまたすたすたトコトコと私と犬たちは山荘に戻るのです。宮沢賢治風な珈琲屋さんを後にして、、、。