2011年6月19日日曜日

着物は生きている


 恒例の6月の「今昔の会」も終わり、またいくつかの古い着物をお預かりすることになりました。
 もうかなり前から「今昔の会」と名をつけて、6月にこの会を開催して以来、何枚何十枚の着物や帯を再生してきたことか、数えきれません。考えて見れば様々な要因があってこういうことを自分で手がけるようになったのですが、ひとえに着物たちがかわいそうだからという理由です。
 箪笥の肥やしなどと呼ばれるようになった頃、若い時に着た着物や帯の寸法が合わなくなったり派手になったりと、様々な理由で箪笥の底に眠ったままになっている着物たち。また、知り合いから頂いた着物や形見の着物などなど、誰もが多くの着物を抱えたままどうしようかなと思っているのも事実です。
 昔のように紺屋さんと呼ばれるような呉服屋さんが町に多く点在していた時代は、それぞれにそういう店に持って行って、何かと相談しながら着物の手入れや染め変えなどをたのんでいたのが普通でした。しかし現在では、ほとんどそのような店も町の中に見られなくなり、呉服屋さんも新しい物を店頭に並べる店が駅前やショッピングビルの中に入り、着物に詳しい年配の人も減りただ新しい品ばかりを中心に勧める傾向が多く、なかなか面倒な相談事には快く乗ってくれなくなってしまいました。

 時代がそうさせたのだと思っていますが、それでは昔の着物が忘れられたままになる一方です。着物の加工法に対する知識が乏しくてはアドバイスは出来ませんが、及ばずながらもこの仕事で生きてきた私が役に立ち、古い着物をまた世に送り出す手伝いが出来るのではと始めた会です。私の工房ではこの作業をすることも勉強にもなり、甦らせる楽しみも伴っています。正直言って新作を創ることの方が自由で制約が無いので楽なのですが、この仕事に携わるものの使命とも思い、出来る限り頑張ろうと思っています。

 新作を創る傍らですが、今では普段の時でも相談の着物を持ち込まれる事も多くなっていますので合間合間に預かる事もあります。
絹の着物はずっとずっと生きているような気がしてならないのです。これはどんなに古くてもその昔蚕が作り出した絹糸で出来ているからではないかと考えます。
 化学繊維では触っていても無機質でそう感じる事は全くありませんから不思議です。この不思議な感覚は多分私にしか分からないでしょう。時にはその着物の持つストーリーすら感じる事もあります。幾人の人たちがこの1枚の着物に関わってきたのかと考えるとどれもおろそかには出来ないのです。蚕から始まり紡いだ人、織ったり染めた人、加工した職人さん、縁あって求めた方、喜んでかつて袖を通した人等々、なんだか、これは私の勝手な想像ですが着物自身が語るストーリーがぼんやりと見えてくる気さえします。 ある意味今昔の会は私のライフワークのひとつかもかもしれません。新作を創り出す原動力にもなっているのでしょう。
今回の会期は夏の新作もまた皆様に見て頂くことが出来て無事に終えました。夏の着物も少なくなった今だからこそ、こちらも頑張らねばと思っています。

 会の終盤ににいらして頂いたkさんは手ぬぐいで創られた帯をお締めになられていて思わずご紹介したくなりました。蒸し暑い中きりりとした着こなしでとても素敵でした。周りの空気までも引き締まる感じだったことをが印象に残りました。