2011年10月3日月曜日

10月の女神の到来は、、、


 ついに10月となってしまいました。毎年思うのですが10月の扉はキンモクセイの香と共に秋の女神が扉を開けて降り立つような気がします。女神はキンモクセイの色の黄色いゴールドがかった薄いベールを秋の風になびかせて来るのです。
豊穣の実りを籠いっぱいに容れて大勢の侍女を従えてやって来るのです。
これはいつも私が抱く10月のイメージなのですが少々乙女チックといわれようとも毎年少女時代から想うイメージなので今更変えようも出来ないのです。
 小さいときからギリシャやローマ神話に憧れて西洋の絵画をよく見ていたせいかもしれません。こと神話と言えば西洋のみならず日本神話も大好きで神話を読みながら眠りにつくと想像が高まりとてつもない夢を見られます。これも現実の煩雑さか逃れたいと思う故なのでしょうか。想像の世界に遊ぶ楽しさは小さいときからのんびり屋だったマイペースの私の癖でもあるのです。

 今は東京と山梨の八ヶ岳のアトリエを行ったり来たりの暮らしなので,週の前半が東京、後半が八ヶ岳での生活と交互に過ぎて行きます。
山では少しづつ木の実が色付いて来ました。赤、橙色、青、紫。黄色。茶色と様々です。ナナカマドの赤い実、山帰来やサルトリイバラの橙色の実、などなどが目につきます。
中でも交通標識のように目立つマムシソウの真っ赤な実は背もそう高くなくてまるで工事中ですよと言わんばかりにユーモラスにひょっこり立っていると見る度に微笑んでしまいます。私はここですと意思表示をして目立とうとしているのは鳥たちにアピールして啄んでもらうためなのでしょう。必死に立っているような気がしてなりません。その名前とは対照的で秋のマムシソウは私にとっても山の秋が来たんですよという道しるべにもなっているのです。

 友人が庭に植えてくれた山椒の木はどんどんと大きく育って秋には小さな赤い実が沢山付いていました。山椒の実の佃煮が好きな私は「これなら佃煮にすれば良かった」と言うと友人は「青い内でなくては佃煮になりません」と教えてくれました。赤くなる頃には固くて、来年はタイミングが合えば挑戦しようかと思いました。山椒の実と昆布の入ったおむすびは美味しいのでこれを目標にと思いますが、誰かさんが買った方が早いと言うので,実現出来るでしょうか。 

まだ山では紅葉が始まりません。わずかにニシキギが赤くなり草紅葉がちらほらと足下に見える程度です。ススキが一面に白い穂を開き秋の風に揺れています。今年は度々山に行くのであの美しい落葉松の紅葉が降り注ぐ日に出会えることでしょう。あれはまさに金の雨と言いたい景色なのです。

 この頃は犬たちの散歩の途中に3回に1回くらいは森の珈琲屋さんに立ち寄り一休みします。先日は「焼きたてのふわふわシュークリーム出来ました」と入り口の黒板に書かれていました。ほとんどお客が来ないところなのに頑張っているなーと思い珈琲と共に頼んでみました。 
 店主は私がベランダに腰掛けると「お寒くないでしょうか」と座布団を持ってきてから「しばらくお待ち下さい」とやおら頭を下げて引っ込みしばらくして現れるのですが、例によって私の好みからすると、やや温度が気持ち低い珈琲を煎れて来るのでいつも「何でだろうか」とこれが適温なのかと思い店主の丁寧な応対に吞まれてしまうのです。 
小さなシュークリームが運ばれて来ました。折角焼いたのに食べる人が少ないのはシュークリームが可哀相と思う私ですが、てっぺんの帽子のようなところは小さくふたつに折って店主のいないときにそっと犬たちに上げました。
 だって犬は珈琲が飲めないのだからと勝手な理由を付けて、私と犬たちの散歩の一休みはなぜか現実離れした時間の中で、目の前の八ヶ岳の山々をぼーっと眺めながら過ぎて行きます。不思議と、この時には時間が存在しないようなおかしな気分になりますが急に秋の風にほおをなぜられて現実に戻り、それからまたすたすたトコトコと私と犬たちは山荘に戻るのです。宮沢賢治風な珈琲屋さんを後にして、、、。