2013年9月24日火曜日

昭和時代の東京オリンピック



 9月上旬には7年後の東京オリンピックが決まり国中が湧きました。私も決定が気になってプレゼンテーションを真剣に聴いており、やはり決定したとなると素直にうれしく思いました。

 そして思ったのは人生の中で2度もオリンピックを東京で見られることはなんと素晴らしい事なのだろうと、青春時代にそして老いてからの老年時代にも経験できるのだと実感し、元気でまだ頑張らなくてはと思ったのでした。
 あの決定を聞いた誰でもが各々の7年後はどうなっているのだろうと思ったのではないでしょうか。若い人は希望を抱き老いた人はまだもう少し頑張るぞと思う気持になったのではないでしょうか。
 7年経つ間に何があるか分かりませんが7年という歳月は短くもなく、また長くもなく丁度良い年月と言えます。 先の昭和39年の東京オリンピックの頃はどうであったかとつらつらと思い出します。

 今みたいにロビー活動なんて言葉もなく、どんな経緯で決まったのかなど知るよしも当時の私にはありませんでした。突然のオリンピック景気に東京中がひっくり返るような騒ぎだったようでした。
 それまで見た事もない多くの外国人が東京に溢れると言うことで今思い返しても可笑しいのですが、お巡りさんが私の家に来てこの町に外国人に道を教えてあげられるような英語が分かる人がいますかと1軒1軒回って聞くのでした。

 当時、私は既に仕事をしていたのですが、道案内くらいは出来ると思いますとまじめに答えて戸籍係のお巡りさんも真剣に調べていたのが印象に残っています。
 戦後はじめて多くの外国人を迎えることに人々は緊張していたのでしょうか、今思うと笑い話のようなのですが、新宿区や渋谷区に割と近いせいか街が急激に変わっていくのが手に取るようでした。

 代々木の米軍の将校ハウスはオリンピック村となり、あちこちにある小さな川は埋め立てられて道路も広くなったり高速道路も出来て急ピッチで東京中は建設ラッシュだったし今よりももっと大変な騒ぎだった気がします。あの時代に比べれば日本もスマートになったものです。
 勿論インフラばかりでなく、デパートやお店もオリンピック景気に乗り遅れまいと様々に動いたのでした。
  その頃私は某デパートの某呉服部の仕事を盛んにしていましたのでオリンピックが始まる頃にはオリンピックに因んだ着物の柄を作るように頼まれて当時は今と違いデパートそのものが流行をリードするような時代だったので、オリンピックの柄たとえば聖火台や聖火を運ぶトーチの柄を小紋に散らして描いたりと真剣に染めていました。

似た柄を染め帯にも染めた記憶があります。半世紀も前の当時の図案が今でも探せばどこかにしまってありますが思い出す度になんとなくあの時の真剣さが微笑ましく思えて日本の良い時代だったのだとも思います。
 今だったらあんな陳腐な柄は作らないでしょうが、あの頃は全力上げて全国民がオリンピックに向かって取り組んでいました。冷めた雰囲気は感じられませんでした。高速道路、新幹線などオリンピックのおかげで出来たような物ですから活気もすさまじかったのです。
 そんな世間の空気や流れの中で私は生きて行くこと、オリンピックの前年の父亡き後の工房を守るのに必死でもありました。
 あの晴天の10月10日に開会式がありまだ珍しかったカラーテレビを見た母の友人がアンツーカーがとてもきれいだと、また行進の各国のユニフォームが素晴らしいと興奮して喋るのを聞いていながらも仕事に忙しくしていた自分には遠い世界の出来事を聞いていたような気がしていたことなどを記憶しています。
 アンツーカーなんて言葉は始めて聞く言葉でしたしカラーテレビもまだなかったのですがバレーボールの東洋の魔女の試合には私も興奮しました。こうしてみると半世紀なんてあっという間です。

 次のオリンピックは誰と見るのでしょうか。 明日の事は誰にも分かりませんが無事に7年後のオリンピックが見られることだけを今は祈りたい気持です。
 先の東京オリンピックを経験したものとして断片的にでもあの時代の空気感を伝えるのもまた自分の役目かなと勝手に思っているこの頃です。